重水素とトリチウム

重水素とトリチウム

索引

『重水素とトリチウムの社会史 歴史を左右してきた水素のなかま』の,人名索引と事項索引です.ダウンロードし,プリントアウトしてご利用ください.
重水素とトリチウム

第二次大戦後の重水素を用いた研究の新たな展開

第二次大戦後のアメリカで,重水素を利用した科学研究が新たな展開を見せ始めた.質量分析計が開発されて重水に関する測定データが蓄積されていたこと,水爆開発との関係で重水の生産量が急増し,科学者も重水を大量に,安価に入手できるようになったからである.そして新たな研究の波は日本の研究者にも及んだ.
重水素とトリチウム

重水素がD,トリチウムがT と書かれるのはなぜか

重水素が Deuterium,三重水素(トリチウム)が Tritium と呼ばれるようになったのは,どうしてか.また,水素の同位体にだけ固有の名称,固有の記号があるのはなぜか(炭素14やウラン238など他の元素の同位体には特別の名称がない).これらの疑問に,重水素の存在が確認されてから数年間の化学者や物理学者たちの議論を通して答える.
重水素とトリチウム

ハンスギルグとは,いかなる人物か

ハンスギルグ(Fritz Johann Hansgirg)なる人物が「重水に関する情報」を朝鮮窒素肥料株式会社の研究部門にいた田代三郎にもたらし、野口研究所が「重水の製造」について研究する遠因になった。そのハンスギルグとはいかなる人物か、その経歴などを明らかにする。
重水素とトリチウム

野口研究所で重水製造の研究を始めたきっかけ ― 田代三郎の回想

野口研究所が「重水の製造」を研究テーマとするにあたっては、久保田正雄からの提案のほか、田代三郎(のち野口研究所常務理事)からの提案も契機となったと思われる。その田代の回想を紹介する。
重水素とトリチウム

理化学研究所を東京都立大学の大学院とする構想

東京都立大学は1949年4月に、都立の高等学校や高等専門学校など6校を統合し、人文学部・理学部・工学部からなる公立の新制総合大学として誕生した。その設立準備の過程で、原子核物理学者の仁科芳雄を初代総長に迎え、なおかつ理化学研究所を都立大学の大学院に位置づける構想があったという。 東京都立大学(南大沢移転当初)。Wikipedia「東京都立大学 (1949-2011)」より。 1981年に公刊された...
重水素とトリチウム

中性子が発見される前、同位体はどう理解されていたのか

『重水素とトリチウムの社会史』第1章第1.1節への補足です。 F.ソディが1913年に「同位体」を見出してから、原子核の構造が次第に明らかになり、やがて J.チャドウィック により中性子が発見されて、今日のような同位体概念が誕生するまでの過程を詳しく述べています。
重水素とトリチウム

交換反応塔のなかでの反応

『重水素とトリチウムの社会史』第2章第4節にある「トレイルの重水製造工場」の項への補足です。