福山甚之助と新聞「家庭」

福山甚之助と新聞「家庭」

『福山甚之助と新聞「家庭」』への補足

2023年5月に発行した『福山甚之助と新聞「家庭」』に盛り込むことができなかったエピソード、登場人物についての補足説明、索引などを掲載しています。 1 「家庭」の創刊 「シャン」の流行:甚之助が本科へ進学したころのエピソード 福山甚三郎の大阪での同窓生と北海道 北海道の醤油醸造業者(1925年ごろ) 2 編集執筆を開始 佐藤昌介(北海道帝国大学総長)をめぐって 3 文芸ものも充実 鈴木商店とは 成...
福山甚之助と新聞「家庭」

北海道の醤油醸造業者(1925年ごろ)

1925年ごろの北海道の醤油醸造業者を、規模が大きい(醸造石数が多い)順に並べてみると、次のようになる。 醸造業者石数所在地石橋彦三郎10,364小樽市奥沢町眞栄町今井醸造株式会社3,549旭川市四条通下村正之助2,880旭川市五条通福山甚三郎2,478札幌市北4条井内謹二2,366旭川市一条丸善菅谷合名会社2,080函館市湯川通板谷商船株式会社1,858小樽市富岡町旭合名会社1,737小樽市奥沢...
福山甚之助と新聞「家庭」

清水真一によるパテーベビー作品

清水真一が1930年前後に9.5ミリの「パテーベビー」で撮影した映像作品のうち,いくつかが YouTube で公開され,清水真一翁顕彰会のウエブサイトからリンクが張られている. それらのうち科学史の観点から見ても興味深いもの2作品について,以下に書き留めておこう. 一つ目は,「秋の旅/石山→大津→叡山→花山山/昭和5年9月6,7日/蘭契会」ならびに「秋の旅/前巻よりつづく」という作品である. この...
福山甚之助と新聞「家庭」

清水真一の,天文学と写真撮影への関心

天文写真の撮影に腕を揮った清水真一は,いつ頃,どのようにして,天文学や写真撮影に関心を持つようになったのだろうか. 清水真一が自宅屋上に設けた「知新観象台」(出典:『天界』14(156)口絵) 清水によれば,自分が「初めて天文の話を聞いたのは1922年のこと」だという.この年の10月31日に「私の所属団体」の主催で,京都帝国大学理学部の新城新蔵に「天地開闢 付相対性原理」という題で話してもらった時...
福山甚之助と新聞「家庭」

清水知新とは清水真一なり

清水真一(1889-1986)は,静岡県島田市で薬局を営みながら自宅屋上に設けた私設の天文台で天体観測を行ない,1930~40年代に重要な業績をあげたアマチュア天文家である. 最もよく知られている業績は,1937年1月末に,1909年に発見されて以降,行方不明となっていたダニエル彗星を,広瀬秀雄(当時,東京天文台の技手)の計算に基づいて捜索し,首尾よく検出に成功したことである.この再発見は世界的に...
福山甚之助と新聞「家庭」

パテーベビーをめぐる日本国内の状況(1920年代)

札幌でミニコミ紙「家庭」を主宰した福山甚之助は,1930年の秋,家庭社に「家庭シネマ部」を設け,小形活動写真の出張撮影・出張映写・現像のサービスを開始すると発表した(1930年11月発行の「家庭」第56号). 「小形活動写真」とは一般に,フィルム幅が普通(35ミリ)より小さいもの(16ミリや8ミリなど)を指すのだが,ここで福山が言う「小形活動写真」は,フィルム幅9.5ミリのもの(いわゆる「パテーベ...
福山甚之助と新聞「家庭」

福山甚之助と池田林儀―『優生運動』が機縁か―

福山甚之助が池田林儀のことを知る(そして「家庭」紙への原稿執筆を依頼する)きっかけは、アムンゼンの札幌来訪とは別のところにあったとも考えられる。 甚之助が池田の寄稿文「新興ドイツの現状」の冒頭で著者の池田について紹介するにあたり、「池田林儀氏は、先年彼の北極征服の偉人アムンゼン氏と共に来道せられ、その講演の通訳にあたられたかたであります」と書いたあとに、「同氏は又一面我が国の優生運動にも多大の尽力...
福山甚之助と新聞「家庭」

福山甚之助と池田林儀―アムンゼンの札幌講演が機縁か―

「家庭」紙の第40号と41号(発行は1929年7月と8月)に「新興ドイツの現状」と題する記事が載った。著者は報知新聞特派員の池田林儀しげのりである。 池田は「家庭」の主宰者 福山甚之助からの依頼を受けて原稿を執筆したのであろう。だとすれば、甚之助はこれより前に池田のことを知っていたはずである。 「家庭」氏の記事「新興ドイツの現状」の冒頭で、甚之助は池田についてこう紹介している。 池田林儀氏は、先年...
福山甚之助と新聞「家庭」

『山峨女史産児制限法批判』を読む

『山峨サンガー女史産児制限法批判』を、国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」で読んでみる。 山本宣治著『山峨女史家族制限法批判』国立国会図書館デジタルコレクションより 表紙の右下に赤字で「以印刷代謄写」すなわち「印刷を以て謄写に代える」と記されている。 当時、「文書図画を出版するとき」は発行日の3日前までに製本2部を添え内務省に届け出る必要があった(1893年の出版法第3条)。そして場...
福山甚之助と新聞「家庭」

サンガー夫人の来日(3)

1922年に初来日したサンガーは、その後も何度か日本を訪れた。 初来日から14年後の1936年3月、インドやマレーシアの各地で産児制限の講演をして米国へ帰る途中、日本に立ち寄った。しかし新聞も「サンガー夫人がヒョッコリ忘れられて居た顔を現わした」と書いたくらいで、大きな話題になることはなかった。石本静枝に会い、講演を1回しただけで、すぐにホノルルへと向かった。産児制限に賛成していた神近市子(注1)...