杉浦兼松のがん研究と重水

米国ニューヨークにあるスローン=ケタリング記念がんセンターといえば,1884年創立の「ニューヨークがん病院」に起源をもち,第二次大戦後にスローンとケタリングの財政支援を得て大きく発展した,世界最高峰のがん病院である.

その病院で,第一次世界大戦中の1917年から67年に退職するまで,がん研究に一途に打ち込んだ日本人研究者がいた.杉浦兼松(1889 – 1979)である.

彼は第二次大戦中も,敵国人でありながら特別の計らいを得て研究を続けることができた.そして戦後まもなく,マウスやラットを用いた動物実験で抗がん剤をスクリーニングするという方法で,マイトマイシンCをはじめとする多くのがん化学療法剤を見出した.1950年代,60年代にはスローン=ケタリングがんセンターの,さらには米国がん学界の花形研究者の一人であった.

1955年には日本癌学会の招きで一時帰国し,がんの化学療法について講演するとともに同学会の名誉会員に選出され,昭和天皇にも面会した.

出典: Cancer Research, 33(6), June 1973 の表紙(一部)

がん研究に重水を用いる

その杉浦が,重水素が発見されて間もない1933年に,「重い水」にはがん細胞の増殖を抑制する働きがあるのではないかと考え,実験で確かめて論文を発表している.

当時,動物の生理作用に対する重水の影響を報告する論文が登場しはじめていた.

たとえばある研究者は,濃度0.05%の重水が藻類の一種アオミドロの成長を促進する効果を示したと報告した.そうかと思えば,ルピナス属(マメ科の属の一つ,和名はハウチワマメ属)の種子は濃度0.05%の重水でわずかに発芽しにくかったと報告する者もいた.

もっと高い濃度の重水で実験する者もいた.重水を初めて製造したルイスは,濃度99%の重水ではタバコの種子が発芽しなかった指摘し,別の研究者は濃度92%の重水の中にオタマジャクシを入れると1時間以内に死んでしまったと指摘した.

こうした報告が相次ぐなかで,杉浦兼松は考えた.腫瘍組織は一般に通常の組織よりも有害物質に対し敏感に反応する.通常の組織が濃度の高い重水で死滅させられたり,0.05%という低濃度の重水でも影響を受けたりするのだとしたら,腫瘍組織はどんな影響を受けるだろうか.

それを実験で確かめることは難しくないだろうと杉浦は考えた.マウスの肉腫や黒色腫(メラノーマ)あるいはラットの癌腫(カルシノーマ)から組織を採り,それらを通常の蒸留水に浸してから動物に移植した場合と,重水に浸してから移植した場合とで,増殖の具合を比較してみればよいだろう.

重水は3種類,濃度14.8%,40%,94%のものを用意した.重水は当時,手に入れるのがとても困難だった.そこで杉浦は,重水素の発見者H.ユーリーが同じニューヨーク市内のコロンビア大学にいたので,彼の実験室から提供してもらうことにした.

杉浦が行なった実験の結果は,ふつうの水であっても重水であっても,しかもいずれの濃度でも,腫瘍の増殖に違いはない(重水の影響は見られない)という,ある意味では期待外れの結果だった.

しかし,この種の研究はこれで終わらなかった.杉浦の問題関心は何人もの研究者に受け継がれ,腫瘍細胞への重水の作用を調べる実験が続けられていくことになる.

杉浦兼松がアメリカで研究を続けるまでの経緯

杉浦兼松がアメリカに渡ったのは1905年のことである.この年の秋,アメリカの鉄道王ハリマンが日本にやって来たのが渡米のきっかけとなった.

ハリマンは,日本が日露戦争に勝利してロシアから手に入れた東清鉄道(南満洲支線の長春-旅順間)を日本から購入しようと目論んでやって来た.だが日本政府との交渉は実らなかった.そこで彼は替わりに,滞在中に興味をもった柔道をアメリカに紹介しようと考え,腕の立つ者を何人か連れて帰国することにした.

ハリマンの通訳を務めていたのは,米国で日系の貿易商社に勤めていた杉浦鎌三郎である.彼はハリマンに,剣道も日本の誇る武術だと力説し,弟の兼松(当時16歳)も渡米する一行6人の中に加えてもらった.高等小学校を卒業してから金物を扱う名古屋の商店に報公に出ていた兼松は,父が剣道の教師で母も長刀の名手だったので小さい頃から剣道の練習に励み腕を磨いていた.

米国での一行の興行は新聞 The New York Times でも取り上げられた.その記事は「彼らは演舞興行するだけでなく,この地で教育を受け,英語力が大学の教科書を読んだり講義を理解できるまで上達し次第,大学に入学することになるだろう」とも報じていた.けれど6ヶ月にわたる興行が終わるや杉浦のほかは皆,日本に帰ってしまった.

兼松だけは,ハリマンとハリマンの主治医ライル(兼松はライル家に寄宿していた)から支援を得てアメリカの学校に通った.

コロンビア大学で生化学を学んだ杉浦は,日本に帰ってがんの研究をしたいと考えた.そこで,アドレナリンの発見で名を知られていたニューヨーク在住の高峰譲吉(日本人倶楽部の会長でもあった)から山極勝三郎(東京帝国大学),鈴木梅太郎(理化学研究所),秦佐八郎(北里研究所)に宛てた紹介状をもらい12年ぶりに帰国した.

だが当時の日本には彼が望むような研究場所がなく,むしろ米国で研究するように勧められる.そこで再び渡米し,高峰の紹介でメモリアル・ホスピタルに研究員として正式に採用された.メモリアル・ホスピタルではちょうど,がん研究を拡充しようとしていたところであり,杉浦はがんの生化学的研究に取り組み始めることになったのである.

ニューヨークでの杉浦は,ロックフェラー研究所にいた野口英世とも親しく交わり,野口の勧めで学位論文「ラヂウム,エマナチオンより放射が白鼠の腫瘍移植可能性に及ぼす影響」を京都大学に提出し,1925年3月に医学博士の学位を得ている.

参考文献

鵜殿新 1976:『ガンとたたかう八十年 杉浦兼松』癌と化学療法社.

杉浦兼松 1963:「回想」『現代医学』11(1),1-12.

渡辺武 1987:「杉浦兼松先生のこと」『図書』3月号,8-13.

Hutchison, D.J. 1980: “Kanematsu Sugiura 1890-1979,” Cancer Research, 40, 2625-6.

Ennis, T.W. 1979: “Dr. Kanematsu Sugiura, 89, Dies; A Pioneer in Cancer Chemotherapy,” The New York Times, Oct. 23.

Hata, T. 1980: “In memorium: Late Prof. Kanematsu Sugiura,” Japanese Journal of Antibiotics, 33(1), 115-6.

Sugiura, K., and L.C. Chesley 1934a: “Effect of Heavy Water (deuterium oxide) on Viability of Mouse Sarcoma and Melanoma,” Proceedings of the Society for Experimental Biology and Medicine, 31, 659-61.

Sugiura, K. and L.C. Chesley 1934b: “Effect of Heavy Water (deuterium oxide) on Viability of Mouse Sarcoma and Rat Carcinoma,” Proceedings of the Society for Experimental Biology and Medicine, 31, 1108-11.