1922年に初来日したサンガーは、その後も何度か日本を訪れた。
初来日から14年後の1936年3月、インドやマレーシアの各地で産児制限の講演をして米国へ帰る途中、日本に立ち寄った。しかし新聞も「サンガー夫人がヒョッコリ忘れられて居た顔を現わした」と書いたくらいで、大きな話題になることはなかった。石本静枝に会い、講演を1回しただけで、すぐにホノルルへと向かった。産児制限に賛成していた神近市子(注1)でさえ、読売新聞に寄せた「サンガー夫人の来朝」という文で「サンガー夫人が来られてゐるようです」と書くほどであった。
また1937年8月には、アメリカから中国へ向かう途中、日本に立ち寄り、東京で日本産児調節婦人同盟の主催する歓迎会に出席するなどした。
第二次大戦が終わると、1949年に加藤シズエ(石本静枝)らがサンガーを日本に招待しようとした。しかしこれは実現しなかった。当時日本を占領していたGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)が許可しなかったためである(注2)。
占領軍による日本支配が1952年5月に終わると、サンガーの来日が実現する。受胎調節の普及を図ることを政府が51年10月に閣議了解事項として決定したり、52年に改正される優生保護法に保健婦・看護婦・助産婦を受胎調節指導員として再教育・認定する制度が盛り込まれるなど、産児制限を取りまく日本社会の状況が、戦前とは大きく変わっていたのである。
そうしたなかサンガーが1952年10月30日、太平洋定期航路船クリーヴランド号で、インドで開催される世界人口問題会議に出席する途中、毎日新聞社人口問題調査会の招きで日本に立ち寄った。
11月8日に日本を発つまで、ラジオでの対談、座談会出席、公衆衛生院の視察、講演会など、忙しい日々を過ごした。11月2日には東京都北多摩郡狛江村の視察も行なった。世帯数2434戸(その4割が農家)の狛江村では、どの家も多産に悩み、52年2月に婦人会が中心となって「全村こぞって産児調節をしようと申し合わせ」、医師らの指導を受けて産児調節に取り組むなど、「産児調節のモデル村」として知られていたのである。
2年後の1954年4月には、今度はホノルルから飛行機で羽田空港に到着し、2週間あまり日本に滞在した。日本家族計画連盟(注3)の創立記念大会に出席するほか、4月15日には衆議院厚生委員会で「人口問題と産児調節に関する件」を議論する場に参考人として招かれ、自らの見解を述べ、質問にも答えた(下図参照)。
翌1955年には、国際家族計画連盟が主催する第5回国際家族計画会議が東京で10月24日から29日まで開催され、それにあわせて連盟会長のサンガーが来日した。会議が終わった後の11月7日、厚生大臣がサンガーに感謝状と記念品を贈った。戦前戦後を通し度々来日して日本の産児制限問題に助言し、また今回の国際家族計画会では夫人の尽力により多くの成果が得られた、というのだった(注4)。
注1: 神近市子(1888-1981)は、青鞜社の一員であり、葉山日蔭茶屋事件(大杉栄をめぐる愛情関係から大杉を刺傷した事件、1916年)などで名が知られていた。1928年には『女人芸術』の創刊に参加する。戦後は衆議院議員として売春防止法の制定に力を尽くした。
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注2: この経緯については、豊田真穂「アメリカ占領下の日本における人口問題とバースコントロール」『関西大学人権問題研究室紀要』57巻(2009年)、1-34頁 が詳しく論じている。
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注3: 日本家族計画連盟は、翌1955年に東京で開催予定の国際家族計画会議に合わせて、旧来の運動家・団体を集めたものとして設立された。しかしこの組織は外向けの看板で運動体としての実体はあまり備えていなかった。家族計画運動で重要な役割を演じていくのは、同じく1954年に設立された日本家族計画普及会(1962年に家族計画協会と改称)である。それまで寄生虫予防運動に携わっていた国井長次郎が、厚生省公衆衛生局の要請を受け、受胎調節普及のための実働民間団体として設立した。なお人工妊娠中絶の件数は、今日でこそ年に15万件前後であるが、1955年には117万件であった(ちなみに同年の出生数は173万人)。参考文献: 萩野美穂「戦後家族計画史のためのノート」『待兼山論叢 日本学篇』36(2002)、19-29.
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注4: 政府は1965年に勲三等宝冠章を叙勲してもいる。
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