産児制限について日本で講演しようとするサンガーに対し日本政府(の一部)は警戒心を抱いた。しかしサンガーの著作物(図書や論文)はすでに、来日の少し前から次々と翻訳され、国内に出回るようになっていた。そしてサンガーが日本に上陸した後の3月14日からは読売新聞が、彼女が途中ハワイに立ち寄ったときに行なった産児制限の講演を、「内務省当局の理解ある検閲を経」て4日間にわたり文芸欄に連載した。
石本恵吉男爵の家で旅の疲れを癒やしたサンガーは、12日、「日本らしいところを見たい」というので鎌倉を観光する。そして翌13日は、自分の「学説に対する諒解を求め」ようと、午後4時過ぎに湯池警保局長を訪問した。しかし湯池は貴族院の委員会に出席中で、かわりに天宅図書課長と会談する。その結果、「産児制限に触れない誓約」で講演会が許可された。
そこでサンガーは14日、神田青年会館で午後3時から「戦争と人口」と題して講演する。その講演会について翌15日の朝日新聞は、「人生に花が咲く/チョイチョイ当てこすって/壇上で上機嫌のサ婦人」という見出しで、次のように報じた。
約800名の聴衆(そのうち3割は婦人)を前に、サンガーは産児制限論を真っ向からは論じなかった。しかし、「体格雄偉なる人間を作り医術、衛生の進歩を計り死亡率を少なくして産業の発達に寄与し文明に貢献しうるに足る人間――肉体的にも精神的にも――を養成しなければならぬ」、あるいは「老衰を防ぎ貧窮を恐れ食物の衛生的摂取に腐心して強壮なる者となさば其処に人生の花が咲く」など、「チョイチョイ閃きを見せ」て論じた。
その後サンガーは、16日に石本静枝(注1)の案内で平和博覧会を見学、18日は午後2時から新婦人協会が主催する歓迎茶話会に出席したあと、午後7時から帝国ホテルでの歓迎宴に出席した。この歓迎宴は、安部磯雄、石本恵吉、加治友三郎の三氏が主催し、医学界の人々や、大学教授、新聞記者などが参加するものであった。そしてサンガーは、宴のあと部屋を替えて「産児制限と道徳」と題する講演を行なった。それは「かなり深刻な講演」であり、サンガーは参会者の質問にも答えた、と翌日の新聞は報じた。
20日には日本女医会会長の吉岡弥生と意見交換した(注2)。そして22日は日光見物をして、翌23日には名古屋に向かい、24日に名古屋商品陳列館で講演したのち、名古屋紐育会の招待宴に出席の予定であった。だが日光が寒かったせいか38度の熱が出て、名古屋行きの予定は急遽取りやめになった。7月にロンドンで開催される産児制限大会まで、日本で静養することになるかもしれないとも報じられた。
しかしやがて快復し、28日夜に横浜から京都に移動する。翌29日には金閣寺や北野神社を見物するが、体調はまだ良くなかったようだ。それでも30日には京都市医師会のために、京都教会で講演する。
その後サンガーは神戸を経て下関へと向かい、4月5日に下関から関釜連絡線で朝鮮に渡った。下関で新聞記者に日本滞在中の感想を聞かれ、「…今は語る自由を有しない、支那に行けば自由に論ずることができるので喜んでいる…」と語る。
朝鮮の京城でも講演するが、「同夫人の言論に対する取締方針は内地同様、専門家以外に対する公開講演は一切禁止」であった。そして京城から鉄道で、奉天を経由し北京へと向かった。
注1: 石本静枝(1897-2001)は石本恵吉男爵の妻。のち離婚し、1944年に無産運動の活動家加藤勘十と再婚して加藤静枝(加藤シヅエ)となる。1920年ごろから産児制限運動を積極的に展開し「日本のサンガー」とも呼ばれるようになる。
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注2: 1900年に東京女医学校(のち東京女子医学専門学校を経て東京女子医科大学となる)を創始した吉岡弥生(1871-1959)は、日本における近代女子医学教育の確立者として知られる。サンガーが来日したときを含め1920年代の吉岡は、産児制限そのものに反対するだけでなく、サンガーの推奨する産児制限の方法にも(危険であるとして)反対していた(たとえば「科学者の立場より産児制限論を駁す」『優生運動』第3巻第6号、27-30頁および54頁)。
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