福山甚之助と新聞「家庭」

福山甚三郎の大阪での同窓生と北海道

福山甚作(甚之助の長兄で、のち父の名を継いで甚三郎となる)は大阪高等工業学校の醸造科を1905年7月に卒業した。 その醸造科を同じころ卒業した者のなかには、甚作のほかにも北海道で活躍した人物がいる。 大阪高等工業学校の醸造科工場出典: 大阪高等工業学校(編)『大阪高等工業学校一覧』自大正5年至6年、大阪高等工業学校国立国会図書館デジタルコレクション 一人は、大阪高等工業学校醸造科で福山甚作と同期だ...
福山甚之助と新聞「家庭」

『福山甚之助と新聞「家庭」』への補足

2023年5月に発行した『福山甚之助と新聞「家庭」』に盛り込むことができなかったエピソード、登場人物についての補足説明、索引などを掲載しています。 1 「家庭」の創刊 「シャン」の流行:甚之助が本科へ進学したころのエピソード 福山甚三郎の大阪での同窓生と北海道 北海道の醤油醸造業者(1925年ごろ) 2 編集執筆を開始 佐藤昌介(北海道帝国大学総長)をめぐって 3 文芸ものも充実 鈴木商店とは 成...
福山甚之助と新聞「家庭」

北海道の醤油醸造業者(1925年ごろ)

1925年ごろの北海道の醤油醸造業者を、規模が大きい(醸造石数が多い)順に並べてみると、次のようになる。 醸造業者石数所在地石橋彦三郎10,364小樽市奥沢町眞栄町今井醸造株式会社3,549旭川市四条通下村正之助2,880旭川市五条通福山甚三郎2,478札幌市北4条井内謹二2,366旭川市一条丸善菅谷合名会社2,080函館市湯川通板谷商船株式会社1,858小樽市富岡町旭合名会社1,737小樽市奥沢...
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清水真一によるパテーベビー作品

清水真一が1930年前後に9.5ミリの「パテーベビー」で撮影した映像作品のうち,いくつかが YouTube で公開され,清水真一翁顕彰会のウエブサイトからリンクが張られている. それらのうち科学史の観点から見ても興味深いもの2作品について,以下に書き留めておこう. 一つ目は,「秋の旅/石山→大津→叡山→花山山/昭和5年9月6,7日/蘭契会」ならびに「秋の旅/前巻よりつづく」という作品である. この...
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清水真一の,天文学と写真撮影への関心

天文写真の撮影に腕を揮った清水真一は,いつ頃,どのようにして,天文学や写真撮影に関心を持つようになったのだろうか. 清水真一が自宅屋上に設けた「知新観象台」(出典:『天界』14(156)口絵) 清水によれば,自分が「初めて天文の話を聞いたのは1922年のこと」だという.この年の10月31日に「私の所属団体」の主催で,京都帝国大学理学部の新城新蔵に「天地開闢 付相対性原理」という題で話してもらった時...
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清水知新とは清水真一なり

清水真一(1889-1986)は,静岡県島田市で薬局を営みながら自宅屋上に設けた私設の天文台で天体観測を行ない,1930~40年代に重要な業績をあげたアマチュア天文家である. 最もよく知られている業績は,1937年1月末に,1909年に発見されて以降,行方不明となっていたダニエル彗星を,広瀬秀雄(当時,東京天文台の技手)の計算に基づいて捜索し,首尾よく検出に成功したことである.この再発見は世界的に...
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パテーベビーをめぐる日本国内の状況(1920年代)

札幌でミニコミ紙「家庭」を主宰した福山甚之助は,1930年の秋,家庭社に「家庭シネマ部」を設け,小形活動写真の出張撮影・出張映写・現像のサービスを開始すると発表した(1930年11月発行の「家庭」第56号). 「小形活動写真」とは一般に,フィルム幅が普通(35ミリ)より小さいもの(16ミリや8ミリなど)を指すのだが,ここで福山が言う「小形活動写真」は,フィルム幅9.5ミリのもの(いわゆる「パテーベ...
その他

アムンゼンが札幌で、バチェラーとの会談を望んだわけは?

以前の記事に記したように、アムンゼンは札幌を訪れたときバチェラー家を訪問した。それは何故だったのだろうか。 イギリス人宣教師J.バチェラーが、日本を離れる1940年まで居住していた家。かつて札幌の北3条西7丁目にあったが、今は北大附属植物園内に移設されている。(筆者撮影) 当時の記録には、「バチェラー博士を訪いアイヌ人の話をきく」、「[アムンゼン]氏の発意からバチェラー氏を訪問、氏宅のアイヌと語り...
その他

池田林儀と報知新聞の関わり

1927年に報知新聞の招きでノルウエーの探検家R.アムンゼンが来日した時、池田林儀しげのりが通訳の一人として活躍した。それは池田が、報知新聞の社員だったことと大きく関係している。 池田林儀は、1892年に秋田県由利郡小出村(現、仁賀保町)に生まれ、東京外国語学校シャム語科を卒業した。大日本雄弁会講談社に入社したのち、大隈重信が主宰する雑誌『大観』の記者を経て、報知新聞で大隈重信の専属記者となる。 ...
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福山甚之助と池田林儀―『優生運動』が機縁か―

福山甚之助が池田林儀のことを知る(そして「家庭」紙への原稿執筆を依頼する)きっかけは、アムンゼンの札幌来訪とは別のところにあったとも考えられる。 甚之助が池田の寄稿文「新興ドイツの現状」の冒頭で著者の池田について紹介するにあたり、「池田林儀氏は、先年彼の北極征服の偉人アムンゼン氏と共に来道せられ、その講演の通訳にあたられたかたであります」と書いたあとに、「同氏は又一面我が国の優生運動にも多大の尽力...