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染色体の研究と映画への関心 ― 牧野佐二郎と映画(4)

牧野佐二郎(1906-1989)は、自伝で回想しているように、北海道帝国大学の予科に入学するとまもなく活動写真(映画)にのめり込んだ。映画とのそうした鮮烈な出会いが、のちの彼の研究スタイル、すなわち自らの研究活動に16ミリ映画を活用するという流儀に、どう影響したのだろうか。 1967年の暮、牧野佐二郎は千葉医学会の例会で「人類染色体の最近の問題」と題して講演した。それを聴いた研究者の一人が感想を書...
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映画「牧場の春」とは ― 牧野佐二郎と映画(3)

牧野佐二郎が、映画への病が高じ製作仲間にも加わったという映画「牧場の春」とは、どんな映画だったのだろうか。また牧野は、どんな役割を果たしたのだろうか。 『北海道映画史』をまとめた更科源蔵は同書で次のように書いている。 この年[1924年]だったかその翌年だったか、記録にも当時の人にもはっきりしていないが説明者協会の人々によって『牧場の春』という映画がとられた。脚本、主役松浦翠波、女優さんに水島キミ...
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映画の雑誌「サトポロ」とは ― 牧野佐二郎と映画(2)

生物学者の牧野佐二郎が仲間に加わって出したという「「サトポロ」という映画の雑誌」は、いったいどんなものだったのだろうか。 1925年6月に創刊された「さとぽろ」という雑誌がある。編集を担当した外山卯三郎の下宿、桑園館(北3条西14丁目)を発行所とし、博文舎(南2条西8丁目)で印刷したもので、「北海道大学の学部と予科の学生、それに予科の先生」8人による同人誌である。「さとぽろ」という誌名は、「バチェ...
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牧野佐二郎と映画(1)

染色体の研究で知られる生物学者の牧野佐二郎は、自らの研究を動画(16ミリフィルムの映像)に撮りためていたし、学会発表などでも動画を活用した。また東京シネマ製作が、映画「ヒトの染色体―生命の秘密を探る―」(文部省学術映画シリーズ18、1966年)を製作するにあたっては、自ら監修するなど研究室をあげて協力した。この映画は、科学技術映画祭優秀作品賞など、いくつかの賞を受賞する。牧野佐二郎と映画(科学映画...
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低温科学研究所と小熊捍(その2)

1941年11月に発足した低温科学研究所は、中谷宇吉郎を中心に構想された当初の案(1939年)では、物理/気象/海洋/化学/医学及生理学 という5つの研究部から構成されるものであり、「生物」は含まれていなかった。しかし1941年11月に正式に発足した低温科学研究所では、純正物理学/気象学/生物学/医学 の4部門から構成され、「生物学」が含まれている(注1)。この間に、何があったのだろうか。 牧野佐...
中谷宇吉郎

牧野佐二郎と中谷宇吉郎

牧野佐二郎(1906 - 1989)は、北海道帝国大学の農学部を卒業すると、理学部の創設とともに農学部から理学部に移った動物学者・小熊捍のもとで助手になる。1930年のことである。このとき中谷宇吉郎も助教授として理学部に着任し、2年後には教授となる。牧野が助教授になるのは1935年、教授となるのは戦後の1947年である。したがって中谷宇吉郎のほうが牧野佐二郎より職位の面で先輩格であり、年齢も6歳上...
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終戦前後にも活発な研究活動

北海道大学総合博物館2階の北の端に「科学技術史資料」を展示したコーナーがある。その一隅にあるガラスケース内に、一冊のノートが、ページを開いた状態で展示されている(写真参照)。 理学部生物学科の助教授であった牧野佐二郎が、敗戦前後の1940~45年10月に、読んだ科学文献の要点や、研究会での報告内容などについて書きとめたノートである。 開いてあるページの右上には小さな紙切れが貼り付けられている。かな...
中谷宇吉郎

低温科学研究所と小熊捍

北海道帝国大学に低温科学研究所が誕生した(官制が公布された)のは、1941年11月のことである。そこに至るまでに中谷宇吉郎が果たした役割については、これまでにある程度、明らかにされてきた(注1)。しかし、同研究所の初代所長に就いた小熊捍(理学部長であり、低温科学研究所長を兼任した)の貢献については、詳しいことがわからなかった。『中谷宇吉郎』でも、低温科学研究所の建物の建設と実験装置の製作に必要な鉄...
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研究室の歴史

北海道大学で連綿と行なわれてきた、科学史の教育・研究についてまとめました。北海道帝国大学の時代から今日までをカバーしています。