福山甚之助と新聞「家庭」サンガー夫人の来日(2) 産児制限について日本で講演しようとするサンガーに対し日本政府(の一部)は警戒心を抱いた。しかしサンガーの著作物(図書や論文)はすでに、来日の少し前から次々と翻訳され、国内に出回るようになっていた。そしてサンガーが日本に上陸した後の3月14日からは読売新聞が、彼女が途中ハワイに立ち寄ったときに行なった産児制限の講演を、「内務省当局の理解ある検閲を経」て4日間にわたり文芸欄に連載した。 日本に滞在中の... 2022.06.02福山甚之助と新聞「家庭」その他
福山甚之助と新聞「家庭」サンガー夫人の来日(1) 国会図書館のデジタルコレクションで『山峨サンガー女史産児制限法批判』を読むに先立ち、サンガー夫人の来日の経緯についてざっと調べてみた。同書は、彼女の来日を機に出版されたものだからである。 アメリカの産児制限運動指導者であるサンガー夫人(Margaret H. Sanger; 1879-1966)については、伝記などがあるものの、1922年に日本を初めて訪れたときの様子については詳しく述べられていな... 2022.06.01福山甚之助と新聞「家庭」その他
その他個人向けデジタル化資料送信サービス 利用した感想 国立国会図書館で「個人向けデジタル化資料送信サービス」が5月19日より始まった。同図書館がデジタル化した資料のうち、大学図書館や公立図書館などに出向けば閲覧できたものが、自宅でも(個人でも)閲覧できるようになったのだ。さっそく、前々から見たいと思っていた『山峨女史家族制限法批判』(1922年)など何冊かを閲覧してみた。 これまでも、大学図書館に行けば、そこに設置されたパソコンで閲覧できた。だが、図... 2022.05.27その他
その他「北大理学部の心意気」がウエブサイトに 北海道帝国大学理学部が1930年4月に開校して間もないころ、若き教官たちが自由闊達に活躍していた様子をいくつかのエピソードで描いた「理学部の心意気」。理学部広報誌『彩』の90周年特集号(2021年3月発行)に寄稿したものだが、このたび理学部のウエブサイトにも掲載された。 中谷宇吉郎や、朝永振一郎、W.クロル(外国人教師)、岡潔、堀内壽郎、鈴木醇、牧野佐二郎などが登場する、短い読み物である。 なお、... 2021.09.18その他
重水素とトリチウム理化学研究所を東京都立大学の大学院とする構想 東京都立大学は1949年4月に、都立の高等学校や高等専門学校など6校を統合し、人文学部・理学部・工学部からなる公立の新制総合大学として誕生した。その設立準備の過程で、原子核物理学者の仁科芳雄を初代総長に迎え、なおかつ理化学研究所を都立大学の大学院に位置づける構想があったという。 東京都立大学(南大沢移転当初)。Wikipedia「東京都立大学 (1949-2011)」より。 1981年に公刊された... 2021.07.31重水素とトリチウムその他
その他田中舘愛橘の初めての書『四桁の対数表』 田中舘愛橘が世に出した最初の書は『四桁の対数表:付けたり いろいろの定数および公式』である。この著作は現在、国立国会図書館のウエブサイトで公開されており、世界中どこからでも無料で閲覧でき、プリントアウトもできる。 同書の奥付(下図)に「明治19年1月25日版権免許」とあるから、「30年間専売の権」を得ていたことがわかる。明治9年に改正された出版条例により、内務省に願い出て「版権免許証」を公布しても... 2018.02.20その他
その他記録映画「北海道に於ける稲熱病防除」と映像「伊藤誠哉氏に文化功労賞」の解題 北海道大学に「北海道に於ける稲熱病防除」という映画と、「伊藤誠哉氏に文化功労賞」と題された映像が残っている。前者は1937年ごろに製作されたもの、後者は1959~62年ごろに撮影・編集されたものと思われるが、ともに無声であるため、内容がよくわからないし、その価値も理解できない。 そこで、これら二つの映像作品の解題を試みて見た。その概要を、きょう、大学の総合博物館で開催される土曜市民セミナーで報告す... 2018.02.10その他
その他研究で得た賞金を生活費に ― 牧野佐二郎 牧野佐二郎は、1942年に雑誌『キトロギア』に発表した論文(体細胞に染色体対合を誘発できたという実験を報告したもの(注1))で、賞金をもらった。その使い道について、牧野は1970年にこう書いている。 月給85円の時代に200円の賞金は目のとび出るものであり、貧乏暮しで子供を育てていた家内と2人、ありがたくいろいろなものを買わせていただいたが、そのとき求めた25円の英国製ベロアの帽子はいまでも冬にな... 2016.10.27その他
その他牧野佐二郎と顕微鏡 前回「小熊捍と顕微鏡」で述べたように、小熊捍は顕微鏡で精確な観察ができなくなったのを機に、研究の最前線から身を引いた。小熊の弟子、牧野佐二郎も同様だったようだ。 牧野は「なにかに打ち込んでいなければきがすまない」(注1)気性で、定年退職後も顕微鏡を覗いていたようだが、最晩年になると、「今は目が悪くなり顕微鏡はみられなくなったので家畜の染色体異常の文献の仕事を自宅で」することになる(注2)。 その牧... 2016.10.26その他
その他小熊捍と顕微鏡 敗戦から1週間ほど後の1945年8月25日、小熊は日本遺伝学会札幌談話会の第82回例会で、「六十年の回顧」と題して1時間あまりにわたって講演した。「小熊先生還暦祝賀談話会」を兼ねた例会だったからだ。 そのときの小熊の講演を、助教授だった牧野佐二郎がノートに書きとめている。そのなかに、こんな記述がある(注1)。 理学部長、6ヶ年。低[温]研、触媒研ヲ作ル。再ビ研究室ニ帰ルベキカヲ[考エタ]。顕微鏡ノ... 2016.10.25その他