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新聞の夕刊、日付に要注意

今や、太平洋戦争前など昔の新聞も、主要紙であればデータベースを使ってオンラインで手軽に読むことができるようになった。一昔前、縮刷版やマイクロフィルムで読むために図書館に出かけなければならなかったのとは大違いである。 ただ、一頃ひところの夕刊については、その発行日に注意する必要がある。 下の図は、大阪毎日新聞1915年10月12日夕刊の第一面である。欄外上部を見ると、右から順にこう書いてある。 (日...
福山甚之助と新聞「家庭」

『北日本評論』創刊号

『北日本評論』は1935年7月に、寺島裕を編輯兼発行人として創刊された。発行元は北日本評論社(札幌市南2条西6丁目、寺島が社長)である。 「発刊の辞」で寺島は、概略、次のように述べている。 満洲や朝鮮の開発に世人の注目が集まっているが、北海道ならびに樺太という北方の開発も軽視してはならない。「国防上の見地に於て満洲が生命であるならば、同じ観点の下に吾が北日本も決して彼に勝るとも劣らぬ生命線である」...
福山甚之助と新聞「家庭」

清水真一によるパテーベビー作品

清水真一が1930年前後に9.5ミリの「パテーベビー」で撮影した映像作品のうち,いくつかが YouTube で公開され,清水真一翁顕彰会のウエブサイトからリンクが張られている. それらのうち科学史の観点から見ても興味深いもの2作品について,以下に書き留めておこう. 一つ目は,「秋の旅/石山→大津→叡山→花山山/昭和5年9月6,7日/蘭契会」ならびに「秋の旅/前巻よりつづく」という作品である. この...
福山甚之助と新聞「家庭」

清水真一の,天文学と写真撮影への関心

天文写真の撮影に腕を揮った清水真一は,いつ頃,どのようにして,天文学や写真撮影に関心を持つようになったのだろうか. 清水真一が自宅屋上に設けた「知新観象台」(出典:『天界』14(156)口絵) 清水によれば,自分が「初めて天文の話を聞いたのは1922年のこと」だという.この年の10月31日に「私の所属団体」の主催で,京都帝国大学理学部の新城新蔵に「天地開闢 付相対性原理」という題で話してもらった時...
福山甚之助と新聞「家庭」

清水知新とは清水真一なり

清水真一(1889-1986)は,静岡県島田市で薬局を営みながら自宅屋上に設けた私設の天文台で天体観測を行ない,1930~40年代に重要な業績をあげたアマチュア天文家である. 最もよく知られている業績は,1937年1月末に,1909年に発見されて以降,行方不明となっていたダニエル彗星を,広瀬秀雄(当時,東京天文台の技手)の計算に基づいて捜索し,首尾よく検出に成功したことである.この再発見は世界的に...
福山甚之助と新聞「家庭」

パテーベビーをめぐる日本国内の状況(1920年代)

札幌でミニコミ紙「家庭」を主宰した福山甚之助は,1930年の秋,家庭社に「家庭シネマ部」を設け,小形活動写真の出張撮影・出張映写・現像のサービスを開始すると発表した(1930年11月発行の「家庭」第56号). 「小形活動写真」とは一般に,フィルム幅が普通(35ミリ)より小さいもの(16ミリや8ミリなど)を指すのだが,ここで福山が言う「小形活動写真」は,フィルム幅9.5ミリのもの(いわゆる「パテーベ...
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アムンゼンが札幌で、バチェラーとの会談を望んだわけは?

以前の記事に記したように、アムンゼンは札幌を訪れたときバチェラー家を訪問した。それは何故だったのだろうか。 イギリス人宣教師J.バチェラーが、日本を離れる1940年まで居住していた家。かつて札幌の北3条西7丁目にあったが、今は北大附属植物園内に移設されている。(筆者撮影) 当時の記録には、「バチェラー博士を訪いアイヌ人の話をきく」、「[アムンゼン]氏の発意からバチェラー氏を訪問、氏宅のアイヌと語り...
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池田林儀と報知新聞の関わり

1927年に報知新聞の招きでノルウエーの探検家R.アムンゼンが来日した時、池田林儀しげのりが通訳の一人として活躍した。それは池田が、報知新聞の社員だったことと大きく関係している。 池田林儀は、1892年に秋田県由利郡小出村(現、仁賀保町)に生まれ、東京外国語学校シャム語科を卒業した。大日本雄弁会講談社に入社したのち、大隈重信が主宰する雑誌『大観』の記者を経て、報知新聞で大隈重信の専属記者となる。 ...
福山甚之助と新聞「家庭」

『山峨女史産児制限法批判』を読む

『山峨サンガー女史産児制限法批判』を、国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」で読んでみる。 山本宣治著『山峨女史家族制限法批判』国立国会図書館デジタルコレクションより 表紙の右下に赤字で「以印刷代謄写」すなわち「印刷を以て謄写に代える」と記されている。 当時、「文書図画を出版するとき」は発行日の3日前までに製本2部を添え内務省に届け出る必要があった(1893年の出版法第3条)。そして場...
福山甚之助と新聞「家庭」

サンガー夫人の来日(3)

1922年に初来日したサンガーは、その後も何度か日本を訪れた。 初来日から14年後の1936年3月、インドやマレーシアの各地で産児制限の講演をして米国へ帰る途中、日本に立ち寄った。しかし新聞も「サンガー夫人がヒョッコリ忘れられて居た顔を現わした」と書いたくらいで、大きな話題になることはなかった。石本静枝に会い、講演を1回しただけで、すぐにホノルルへと向かった。産児制限に賛成していた神近市子(注1)...