「軍事研究」の戦後史

「軍事研究」の戦後史

「夏の学校」とアジア財団

『「軍事研究」の戦後史』の第5章で、1961~62年に「東洋文庫」に対するアジア財団からの資金援助が、軍事研究との絡みで問題視されたことを紹介した。 このアジア財団が、自然科学の領域で巻き起こした波乱についても記しておこう。東洋文庫の件があってから3年後、物理学会などの米軍資金問題が持ち上がる2年前、1965年のことである。 この年、素粒子物理学の分野の研究者たちが中心になって、神奈川県大磯で国際...
「軍事研究」の戦後史

三村剛昻の葛藤、被爆した物理学者として

物理学者の三村剛昻(みむら よしたか)は、戦後の1952年に原子力の研究を始めようとする動きが日本の学術界に出てきたとき、広島で被爆したという自らの体験もあって、原爆の開発につながりかねないとして強く反対した。しかしその三村も、前年の日本学術会議総会では、『「軍事研究」の戦後史』の第2章に記したように、「戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない」という姿勢を声明で示すことに対し、反対意見を述べ...
「軍事研究」の戦後史

「敗戦後はじめての教授会」への補足

以前このブログに、「敗戦後はじめての教授会」という一文を書いた。その中で、敗戦から2日後の1945年8月17日に開催された北海道帝国大学の部科長会議において、「軍事研究に関連する書類などは処分せよ」との指示が各学部に対してなされたことを紹介し、以下の一文を理学部教授会議録から引用した。 但し研究は軍関係のもの、戦力に直接関係するものに在りては純学術的なものに或は平和産業方面のものに切替へ実施の事。...
中谷宇吉郎

敗戦後はじめての教授会

北海道帝国大学理学部では、1945(昭和20)年になり敗色の色がますます濃くなっても、月に1回(7月のみ2回)のペースで教授会を開催していた。8月は、10日金曜日に開催し、触媒研究所の教官人事などを審議するほか、疎開についても相談している。 疎開の経費を文部省に要請したが、支払ってもらえないだろう。そこで大学本部に、講座あたり1万円ずつ手当てしてくれるよう交渉する、ついては疎開させる物品のリストを...