北海道帝国大学理学部では、1945(昭和20)年になり敗色の色がますます濃くなっても、月に1回(7月のみ2回)のペースで教授会を開催していた。8月は、10日金曜日に開催し、触媒研究所の教官人事などを審議するほか、疎開についても相談している。
疎開の経費を文部省に要請したが、支払ってもらえないだろう。そこで大学本部に、講座あたり1万円ずつ手当てしてくれるよう交渉する、ついては疎開させる物品のリストを学部長に提出すること、と決まった。物品壕を掘ること、疎開隊を編成することなども決まった。
次回の教授会を9月7日(金)に開催し、次期の学部長を選考する、と決めてもいる。5日後に事態が急展開するとは、思いもしなかったのだろうか。
敗戦後はじめての教授会が開かれるのは、敗戦の3日後、8月18日(土曜日)のことである。学部長ほか17名が出席(欠席者は3名のみ)した。
その日の教授会議録によると、まず最初に、敗戦当日の15日ならびに17日に開催された部科長会議で「説明」があったことについて、学部長が詳しく報告している。
17日にあったという「説明」の一つに、「講義と研究は、本省より何分の通牒ある迄は現在通り継続実施の事」というのがある。ここでは、それにつづく文に注目したい。
但し研究は軍関係のもの、戦力に直接関係するものに在りては純学術的なものに或は平和産業方面のものに切替へ実施の事。又、□力や戦力に関する重要書類並思想関係書類は完全に処理し置く事。[□の箇所の一字、判読不能]
軍事研究をカモフラージュするように、という指示である。
部科長会議で説明があったというこの指示の、大元の発信者は誰なのか(総長か、それとも文部省か)は不明である。
ちなみに、同じ17日の部科長会議であった指示には、次のようなものもある(これが全てではない)。
- 疎開荷物は急速に持ち帰る要なし
- 戦闘隊は結成前に付中止、学徒隊は現在の儘継続
- 講和条約或は停戦協定後のそれと混同せぬ様にし、当分の間は防護服装にて登学の事
さて、拙著『中谷宇吉郎』(ミネルヴァ書房)の98ページに記したように、中谷の妻 静子が、次のように書き残している(注1)。
[中谷は]敗戦のとき、大学から研究資料を全部焼けといわれましたが、その命に反して、自分の研究は後輩に伝えるものと拒否しました。
「大学から研究資料を全部焼けといわれました」というのは、上に紹介した、部科長会議から理学部教授会へというラインでおりてきた指示のことを指すのではないだろうか。
もしそうだとすると、大学からの指示は「研究資料を全部焼け」というものではなく、占領軍から追求されかねない「重要書類並思想関係書類」を処分しておくようにというものだったから、「その命に反して」というのは、ちょっと言いすぎのようにも思う。
また、軍事研究をカモフラージュするようにという指示を受けたのは、中谷宇吉郎だけではなく、理学部の教官全員であったことにも留意が必要である。
追記(2016/11/22):「敗戦後はじめての教授会」への補足 も参照されたい。
注1) 中谷静子「高野家とのご縁」『高野與作さんの思い出』満鉄施設会、1982年。なお、「敗戦のとき、大学から研究資料を全部焼けといわれ」たといった趣旨のことを、中谷宇吉郎本人は書き残していないと思う。