中谷宇吉郎の自宅

1939年、伊豆の伊東での療養生活を終えた中谷宇吉郎は、札幌に自宅を建て、そこに移り住んだ。中谷はその経緯について、随筆にこう書いている(注1)。

いよいよ[家族の]皆が丈夫になったので、伊豆の寓居を引き払って札幌へ帰ろうとしてみたら、北海道の資源開発に関係した殷賑産業のあおりを喰って、借家というものがまるで無くなっていることがわかったのである。半年もかかって探しても適当な家が見付からないので、仕方なく急いで小さい家を作ろうということになった。

家を建てた場所が「札幌市南四条西十六丁目」であったことは、当時、石黒忠篤をはじめ色々な人々に中谷が送った手紙などからわかる。そして北星女学校の住所が南四条西十七丁目であったから、北星女学校の向かい側(東側)の区画である。

そのことを裏書きする、次のような記述もある。高瀬正仁氏による、数学者・岡潔の評伝中の文である(注2)。

中谷家の道路をはさんで向かい側の建物は北星女学校であった。赤レンガの塀に囲まれ、緑の芝の校庭にクリーム色の美しい校舎が建っていた。通用門に面した位置にあるのが中谷家の玄関であった。

この一節が何を典拠にしているのか、同書中には示されていないのだが、同氏のブログ記事「岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(117) 中谷家再訪」によれば、宇吉郎の二女、芙二子氏の回想に基づくものと思われる(注3)。

当時、北星女学校の東側には、正門のほかに通用門が2つ、正門に向かって左と右(正門の南と北)にあった(注4)。中谷の家は、おそらく、右側(北側)の通用門に面していたと思われる。なぜなら、1930年に上空から撮影した「校舎の全景」写真を見ると、右側(北側)の通用門の向かい側は空き地であるが、左側(北側)通用門の向かい側にはすでに民家が建っているからである(注5)。

南四条西十六丁目の土地台帳を見ても、中谷宇吉郎の名前は見あたらない。おそらく、土地を借りて家を建てたのであろう。

前記1930年の航空写真では、北星女学校の周囲はほとんどが、空地か畑である。1936年の地図(大日本職業別明細図・札幌)を見ても、北星女学校のあたりは札幌の街の「西端」だ。だから中谷が家を建てた頃のこの地は、まさに「新興住宅地」だったのではなかろうか。1950年頃に北星学園の敷地から西方を写した写真でもまだ、三角山や手稲の山並みが家々に邪魔されることなく写っている(注6)。

中谷は戦前に、自宅向かいにある北星女学校で講演をしたことがある。同校の卒業生S氏が「学生時代の感動的な想い出」と題して、こう書いている(注7)。

「雪の結晶」の第一人者、中谷宇吉郎先生が素晴らしい雪模様のお話しをして下さいました。こんな有名な方が北星のすぐそばにお住まいだとは知りませんでした。自然の雪の形を、色々と知った私、それからは、寒波がおそった朝、目がさめると、窓に花が咲いていないかなあ!とか、手袋の上に、そっと降り落ちてくる粉雪を、興味深く一瞬、見つめつくした事、見方をかえて、雪空を眺められた幸せを時折り、想い出しております。…

中谷によるこの講演は、「北星女学校の先生」エリザベス・マッキンノン嬢が取りもったのかもしれない。マッキンノン嬢は、なんと中谷家の向かいに住んでいたのである。
(詳しくは次の稿で)


注1)「生活の実験」『中谷宇吉郎随筆選集』第一巻、朝日新聞社所収
注2)高瀬正仁『評伝岡潔 花の章』海鳴社、p.334
注3)http://reuler.blog108.fc2.com/blog-entry-630.html ちなみに『評伝岡潔 花の章』の別の箇所には、次のような記述もある。「[岡潔は]中谷家の子供たち(長女の咲子さんと二女の芙二子さん)を連れて丸井百貨店に行き、可愛らしい七福神の置き物を買ってやったこともある。朝方、中谷家の前に立ち、登校してくる北星女学校の女学生たちに向かって小石を投げたこともある。女学生たちはきゃあきゃあ騒ぎ立てたが、岡潔は小石の軌跡をじっと見つめていたというから、何か観察したいことがあったのであろう。」(高瀬正仁『評伝岡潔 花の章』海鳴社、p.344)
注4)「南五条所在 北星女学校当時校地及校舎配置図」『北星学園百年史 資料編』1990年、pp.384-385
注5)『北星学園八十年誌稿』グラビアp.3. なお左側(北側)通用門は、宣教師館へと通じる門である。
注6) 写真「1950年頃のグラウンド、作法室、スミス館」『北星学園女子中学・高等学校の110年』、p.60
注7)リラの会・「私たちの北星」編集委員会『私たちの北星』、p.125 (北星学園百周年記念館所蔵)