爵位
佐藤昌介の二男 昌志は、母の生家である稲田家の養子となり、稲田昌植となった。そして1920年3月、父の稲田邦植が隠居したのにともない爵位(男爵)を継承し、1925年には貴族院議員にも選出される。
一方の佐藤家では、長男が若くして亡くなり、他の二人の男子も早く世を去ったために、五男(末子)の昌彦が佐藤家を継ぐ。佐藤昌介は1928年11月、昭和天皇の即位式に会わせて行なわれた授爵や叙勲の機会に、男爵を授けられていた。その爵位も、昌彦が1939年7月に承継した。
しかし昌彦はその爵位を、第二次大戦後の1946年5月に返上する。その理由について彼は、概略、次のように語っている。
父の昌介が爵位を与えられたのは、札幌農学校を総合大学にまで育て上げ、北海道開拓にも多大の貢献をしたという勲功に対する恩賞としてである。したがって「その栄誉はその人一代で消滅して差しつかえないし、又そうであるべきであった」。
佐藤昌彦『佐藤昌介とその時代[増補・復刊]』北海道大学出版会、2011年、pp.138-149
教育勅語に関する講演
新聞「家庭」の第56号(1930年11月発行)の第一面に、「教育勅語渙発四十周年記念日に当りて」と題した記事が出ている。記事の著者名は記されていない。だが紙面中央に下のような写真が掲載され「空沼小屋前に於ける乗馬服姿の佐藤北大総長」とキャプションがつけられている。
じつはこの年の10月30日に札幌市公会堂で、北海道庁主催の教育勅語渙発四十周年記念式が開催され、佐藤昌介が「教育勅語渙発四十年を畏みて」と題した講演を行なっていた。「家庭」に掲載されているのは、おそらくそのときの佐藤昌介の講演であろう。
記念式は教職者や官公吏など700名余りが参列して行なわれ、式後には祝賀会も行なわれた。祝賀会に参加を希望する者は「会券」を50銭で購入すること、との案内が10月21日の新聞に出ているから、記念式のほうも、希望する者は誰でも参列できたのであろう。甚之助も式典に参列して佐藤昌介の講演を聞いたのではなかろうか。
ちなみに「家庭」に掲載された文章に拠れば、佐藤昌介は「〔教育勅語は〕実に実に崇高偉大なる、我が国 立国教化の一大法典である」などと激賞したうえで、次のように語って講演を結んでいる。
〔その記念式を40周年に至って初めて行なうということは〕「あまねく御聖訓の徹底を期し、感激を新たにして精進せねばならぬほど、われわれ国民は堕落してしまったものである。まことに慚愧痛恨の至りに堪えぬ次第である