北海道帝国大学の予科でドイツ語教授だった成田秀三は、1923年秋に欧州への留学に出発する。21年にスキー部の第3代部長になってから間もないときである。
新聞「家庭」には、その欧州での旅行をもとに、旅烏という筆名で「独逸ところどころ」を寄稿した。自分の描いた挿絵(スケッチ)もときどき添えている。書籍に掲載したもののほかに、以下のようなものがある。
さて、本項の見出しにある「エピソード」とは、成田が欧州に出発する1923年の春から夏にかけて、某大学の予科で起きた出来事である。
ドイツ本国から「若手のK氏」がドイツ語教師として着任するというので、同氏の歓迎会が催された。予科生たちは、「どんな人だろう」「ドイツ語の挨拶が理解できるかな」などと不安を抱きつつも期待して待っていた。
拍手に迎えられ壇上に立ったK氏は話し始めた。「みなさん、私は今度はじめて日本に参りました…」。なんと、巧みな日本語で一気によどみなく、しかも原稿も持たずに話すではないか。生徒はもちろん、並みいる教官たちもあっけにとられた。
やがて生徒らは驚喜し、足でどんどん床を踏み鳴らしながら、万雷の拍手を浴びせかけた。さながら、演奏会でのアンコールのようだった。
出典: 『白線への郷愁―高校今昔物語―』(黎明書房、1954年)中の「型破りなドイツ人」の記述を要約
成田はこの出来事について、種明かしもしている。
K氏は、自分の話そうと思っていることをドイツ語で書き、それを予科の「ドイツ語の中田教授」に頼んで日本語に訳してもらい、歓迎会までの数日間、その日本語を一生懸命に練習したというのだ。
成田が「型破りなドイツ人」に書いていることを総合して判断するに、某大学とは北海道帝国大学であり、「ドイツ語の中田教授」とは成田教授、すなわち自分自身のことだと思われる。そしてドイツから来た「K氏」とは、Willy Kremp (1897-?)であろう。
この「K氏」が某大学予科(すなわち北海道帝国大学予科)に着任するにあたっては、「日本の某大学からF大学に留学していた五藤教授」が間に立ったのだが、そのとき、かなり異例の展開があった、とも成田は明かしている。(「F大学」とはフライブルク大学であろう。「五藤教授」が誰かはわからない。)
なお W. Kremp は、大学予科の仕事の合間を縫ってアイヌ文化について調査研究を行ない、学位論文 Beiträge zur Religion der Ainu(アイヌの宗教について)をまとめ、ボン大学に提出している。
また成田は、1931年の春に、北海道帝国大学予科から富山県の富山高等学校に移った。ちょうど、新聞「家庭」の休刊とタイミングを合わせるかのような異動であった。
富山高等学校では、ドイツ語教授ならびに教頭となり、1941年には校長となる。終戦後の1945年11月に退職したあとは、(財)加越能育英社 明倫学館の塾長を務めるなどした。