福山甚之助は1949年、『北海評論』という雑誌に2つの論説を発表している。
- 「北海道大豆を憶ふ」(第4巻第1号、1949年1月発行)
- 「油脂資源増産の急務」(第4巻第5号、1949年6月発行)
この『北海評論』という雑誌は、1935年創刊の『北日本評論』が敗戦後の1945年12月に、改題して再出発した雑誌である。
『北日本評論』を創刊したのは、それまで帯広市の北海道製糖株式会社で「平凡なサラリーマン生活を送っていた」という、寺島裕である。
寺島の創刊した『北日本評論』は、戦時下の1944年3月、廃刊を余儀なくされる。
そこで寺島は敗戦後、誌名を「北日本」から「北海」と改めて再出発することにした。改称の理由は、敗戦により樺太が日本の領土でなくなったことである。新しい雑誌では、「厳正中立な立場から北海道の政治、経済、文化の発展を目指す」ことを編集方針とした。
最初は、記事を書くのは寺島一人だった。だが1949年ごろから、執筆陣が次第に広がりを見せ始める。甚之助の論説が掲載されたのは、ちょうどそのころである。
「人物紙芝居」という連載コーナーが『北海評論』誌上で執筆者を明示することなく始まるのは、1946年7月発行の第1巻第5号からである。
このころはまだ寺島がほとんど一人で記事を書いていた。だから、「人物紙芝居」も寺島が書いた可能性が高い。第5巻第4号の「人物紙芝居」で「福山甚之助」を評したのも、寺島裕だったのではなかろうか。
寺島はその後も『北海評論』の刊行を続けるが、1968年2月22日に急逝する。享年66だった。寺島亡きあとの『北海評論』は三浦幸雄によって編集・発行が続けられる。
なお、『北海評論』でジャーナリストとして活動した島田裕は、『史蹟の武蔵野を探ねて』(新生堂、1936年)などを著わした島田裕とは別人物である。
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