「飛行船ツェッペリン号の飛来」の項で、林類蔵がもらった「世界的の珍品」について紹介した。飛行船ツェッペリン号の乗員たちがサインしてくれた色紙である。
このサインをもらったことを林は大いに誇りに思っていたようで、札幌商工会議所(編)『昭和四年度 札幌商工人名録』にも、そのサイン(「家庭」42号に掲載されているのと同じ)を使った広告を掲載している(下図)。
上から順に、Dr. H. Eckener, Hubert Wilkins, Ernst A. Lehmann とサインしてある。
林類蔵は大の航空マニアだったようで、『北海の防空 附航空の常識』という本を「北海の防空社」(発行所兼発売元、札幌南大通り西10丁目4番地)から1930年5月に出版している。
同書で林は、飛行機に関心を持つようになった経緯に関して、次のような趣旨のことを語っている。
1876年に徳島県那賀郡南林村に生まれた林類蔵は、95年に北海道に渡ってきた。それから10年ほど後、1904年2月に日露戦争が始まり、第七師団の経理部に召集される。その数日後、林は衝撃的なニュースを聞く。ロシアのウラジオストック艦隊の4隻が突然、津軽海峡西口に現われ、酒田から小樽に向け航行中の奈古浦丸(1080トン)を砲撃して撃沈した、そして函館では「明朝敵艦の砲撃を受けるかもしれぬ」と大騒ぎになり、着の身着のまま近郊へ非難する老人や子供、非常時に備え店の戸を閉め切ってしまうもの、貴重品や手近の日用品を馬車や荷車に積んで運び出すものなど、大混乱になった、という知らせである。撃沈された奈古浦丸は、林が北海道に渡ってくる時に乗ってきた船でもあった。
このときに林は、「飛行機があったら」と思ったのだという。
ライト兄弟が初めて動力飛行に成功したのは、わずか2ヶ月ほど前の1903年12月のことであり、その事実とて、今日のように重要視(注目)されたわけでもない。1904年11月ごろになって、日本政府が「サンフランシスコ人レグッス氏発明の空中飛行器」の購入を申し込んだ、というニュースが新聞に載る程度であった。
林はおそらく、上空からの警戒監視に飛行機(飛行船?)が有効だと考えたのであろうが、それにしても林がどうしてこれほど早い時期に「飛行機」に注目したのか、なお不思議である。
なお林類蔵は、「林タオル店」の広告を新聞「家庭」にも掲載している(下図)。