『雪』をめぐるエピソード

中谷宇吉郎著『雪』(岩波書店)

岩波新書の『雪』は、中谷宇吉郎の数多くの著作のなかで最もよく知られたものであろう。この『雪』に関し、中谷の高弟でもある樋口敬二氏が、「中谷宇吉郎小伝」のなかで興味深い事実を指摘しておられる(注1)。

「『雪』の初版が1938年7月に出た時に、雪の結晶の研究史についての記載には加納一郎著『氷と雪』(梓書房、1929)からの引用が多いのに、その出典が明記されていないので、加納氏が中谷先生に申し入れをされ、その結果、1938年12月に出た一部改訂版の「序」に」、加納氏の著作に依拠した旨が書き加えられたというのである。

2012年に書かれた樋口氏のこの指摘を、私は2013年に読んだのだが、この件について調べてみようという気にはならなかった。ことの性質上、真相をこれ以上明らかにすることはできないと思ったからである。

その後、2014年の年末、樋口氏は別件で私信をお送りくださり(注2)、その中でこの件にふれて、「これも中谷研究のテーマになると思います」とお書きになっていた。二人の文章のコピーと、『雪と氷』について樋口氏がお書きになった「解説」(注3)のコピーも送って下さった。この「解説」を読むと、樋口氏は1986年からすでに、この件を指摘されていたことがわかった。

しかしそれでも、拙著『中谷宇吉郎 人の役に立つ研究をせよ』ではこの件に触れなかった。ところがその後、今年(2015年)の7月に樋口氏から頂いた私信に、この件を調べてみるよう改めてお勧めの言葉があった。そこで、事実関係だけでも自分なりに整理しておこうと考えるに至った。樋口氏がすでに述べておられることに付け加えることはほとんど無いのだが。

中谷宇吉郎の『雪』の初版には、「昭和十三年七月」(昭和13年=1938年)の「序」があり、その最後は次のように結ばれている。

此の本を書く前に実は、色々な雑誌や新聞に雪の話を時々書いたので、それ等の記事の一部が重複して此の本の中へ出て来て居ることがある点を御断りする。本当の所は此の本を作るに当つて、小林勇氏が大変力瘤を入れてくれて、私の前の雪の記事の中から適当なものを取り出してくれたり、それから色々な雪の旧い文献とか新しい雪国生活の記録とかを持ち出してくれたりしたので、本書の一部は小林氏との共著と云つてよい位色々助力を惜しまれなかったのである。茲に銘記してその好意に深く感謝する次第である。

この初版は、同書の奥付によると、1938年11月15日に印刷され、11月20日に発行された(注4)。

ところがそれから1ヶ月もたたないうちに「改訂版」が出されたようで、私の手元にある『雪』(1943年10月10日発行、第8刷)の「序」では、日付が「昭和十三年十二月一部改訂に際して」とされ、上記「序」の最後の一文が次のように改められている。既存の文の途中に、加納氏の著書に依拠した件(黄色下線部分)を挟み込んだのである。

茲に銘記してその好意に深く感謝する。又雪華の研究史に就ては、加納一郎氏著『氷と雪』に拠るところが多かった。併せて感謝の意を表する次第である。

中谷の『雪』は4部構成になっており、問題となった部分は、第2部「「雪の結晶」雑話」の第1節と、第2節の冒頭部分、『雪』(第8刷)では24~28頁である。『雪』の改訂版では、「序」に加筆するだけでなく、第1節の末尾にも次の一文が加えられている(注5)。

之等の歴史は、一八九三年刊行のヘルマンのSchneekrystalleに詳述してあるが、我国でも加納一郎氏著『氷と雪』に雪華研究史の詳しい話がある。

それにしても、中谷宇吉郎の『雪』と加納一郎の『雪と氷』は、どのくらい似ているのだろうか。上記5頁(pp.24-28)の中谷の文章を、加納一郎著『氷と雪』の第5章「雪華の研究」にある文章(pp.117-127)と比べてみると、そのすべてが『氷と雪』の文章をもとにしていることがわかる。たとえば、こんな具合である。

この頃迄の雪華の観察は、肉眼でなされたか或は簡単な虫眼鏡でされたのであるが、十七世紀後半に於いて、顕微鏡の発明が全ての学問的研究に一大飛躍を齎したと同時に、雪華の研究も長足の進歩をしたことはいふまでもない。一六六五年かの細胞の発見者として有名なロバート・フックが「ミクログラフィア」なる書物を現し、顕微鏡で見た種々の図を掲げ当時の学界の注意を惹いたが、その中に雪や霜なとの結晶の模写も発表してゐる。そして彼は星状の雪の結晶では、軸から分岐する小枝はすべて隣の軸と平行せるものであることを発見し、従来の観察が誤りであることを知らしめたのであつた(注6)。

中谷宇吉郎『雪』

しかしこの頃までは、微細にして且つ容易に消失する雪華の観察は、殆んど全く肉眼によつてなされてゐたこと疑ふ余地がない。ところが一七世紀後半における顕微鏡の発達は、全ての学問的研究に大なる進歩を齎した。即ち生物の細胞――正確には細胞膜――を最初に発見したので有名なロバート・フックは、『ミクログラフィア』と題する書物を著し、(一六六五年、ロンドン)その中には顕微鏡で見た種々の小さなものの描写図を掲げ当時の学界に非常な注意を惹いたのであるが、その中に雪や氷や霰や霜などの結晶をも顕出してゐる。そして彼は雪の結晶において、星形のものにつき軸からの分岐はすべて隣の軸と平行せるものであることを看破して、バルトリヌスらの観察の誤であることを知らしめた。(第一五図参照)(注7)

加納一郎『雪と氷』

樋口氏が言うように、「これでは加納氏が中谷先生に申し入れをしたのも当然だと思われる。」(注8)

加納一郎が中谷宇吉郎に申し入れをし、その結果「序」が改訂されたことを、樋口氏は「三高山岳部の先輩で、昭和二〇年代に北海道の営林署におられた小林一良氏」から伝え聞いたという。その小林は「加納さん自身から聞いた」のだという(注9)。

では、どうしてこうしたトラブルが起きてしまったのだろうか。この点について樋口氏は、加納から「申し入れがあるまで中谷先生はこの点をご存じなかった可能性もある。……雪の結晶の研究史の部分は小林氏が執筆されたことも考えられるからである」と述べている(注10)。小林勇が「大変力瘤を入れてくれて」、「本書の一部は小林氏との共著と云ってよい位色々努力を惜しまれなかった」と中谷が書いている、というのが推測の根拠である。

しかし、「序」の記述をそのままに受けとれば、小林は各種の文献資料を集めてくれただけと思われる。また『雪』第2部の、第2節第1段落目までは『氷と雪』に基づいているが、第2段落目からはそうでない。こんな一部(わずか数頁)だけを小林が分担執筆するというのは、話の流れや文体統一という点を考えるだけで、かえって効率が悪いようにも思える。

加納一郎の著作に依拠した旨、明記するのを怠ったのが、中谷なのか小林なのか、真相は不明である。しかしそれとは別に、一般論として、他の著作から文章や図を引用するにあたっての作法が今日よりルーズであった、とは言えるように思われる。次の事実も、その一例かもしれない。(つづく


注1) 樋口敬二「中谷宇吉郎小伝(3) 天然雪の研究 ―大英博物館と自然史博物館―」『北海道大学総合博物館 ボランティアニュース』No.26、2012年、pp.1-3
注2) 2014年12月11日付、私信
注3) 樋口敬二「『氷と雪』について」『加納一郎著作集 第三巻』教育社、pp.367-373所収
注4) 改訂前の「序」が掲載された『雪』は、古本市場にも図書館にもほとんど存在しないようである。国立国会図書館には改訂前の初版があり、しかもデジタルライブラリに収録されているのでオンラインで簡単に閲覧することができる。
注5) 中谷宇吉郎『雪』岩波書店、1943年(第8刷)、p.28
注6) 中谷宇吉郎『雪』岩波書店、1943年(第8刷)、pp.25-6
注7) 加納一郎『氷と雪』梓書房、1929年、pp.121-2、第一五図に相当する図は、『雪』には掲載されていない。
注8) 前掲「中谷宇吉郎小伝(3) 天然雪の研究 ―大英博物館と自然史博物館―」、p.5
注9) 前掲「『氷と雪』について」、p.372. 樋口氏はこの「解説」で、加納一郎が、ベントレーの有名な写真集 Snow Crystals が出版される前から論文を通してベントレーの業績を知るなど、はば広く最新の文献に通暁していたことや、『氷と雪』で初めて「雪氷現象を一つの体系としてとりあげた」ことを指摘し、加納の功績を評価している。
注10) 前掲「中谷宇吉郎小伝(3) 天然雪の研究 ―大英博物館と自然史博物館―」、p.5