清水真一が1930年前後に9.5ミリの「パテーベビー」で撮影した映像作品のうち,いくつかが YouTube で公開され,清水真一翁顕彰会のウエブサイトからリンクが張られている.
それらのうち科学史の観点から見ても興味深いもの2作品について,以下に書き留めておこう.
一つ目は,「秋の旅/石山→大津→叡山→花山山/昭和5年9月6,7日/蘭契会」ならびに「秋の旅/前巻よりつづく」という作品である.
この「秋の旅」について清水は,「山本一清先生と思い出」という文章でも簡単に触れている(山本 1959).大要をまとめると,次のとおりである.
1930年,8名ほどの友人と関西旅行.9月6日夜,石山に一泊し,翌朝 大津にある京都帝国大学臨湖実験所に川村多実二先生を訪ね,同所を見学.午後 比叡山に向かい,夕刻 八瀬に下りる.夜は,予て中村要氏に依頼しておいたので花山に登り,同氏の案内で,30cmの望遠鏡で月,土星,白鳥のベータなどを見せてもらった(註1).
川村多実二は京都帝国大学理学部の動物学教授で,臨湖実験所を拠点に動物学の研究を行なっていた.川村は第4回「島田夏期大学」(1926年8月)の講師に迎えられ「心の進化」と題して講義した.おそらくはこれを機に,清水ら蘭契会のメンバーとの間に交友関係ができたのであろう.
また中村要(1904-32)は,1921年から京都帝国大学理学部の天文学教室の嘱託として活躍していた天文技術者である.
1929年,京都の街の灯りで空が明るくなり大学構内での天体観測が困難になったため,花山(京都東山連峰の東に位置する)に京都帝国大学の天文台が建設された.その花山に,清水たち蘭契会の一行はハイヤー2台を連ねて登った.先に行った車は「不注意にも子午儀室?の直ぐ側まで乗付けてしまい,観測されている方[山本一清]からヒドク叱られました」と清水は回想している.
この映画の5分25秒あたりから,「次の映画は昨秋撮影したもので一行の顔の見えぬのを物足らなく感じますが 花山天文台の大略を紹介する為めこゝに借来つたものであります」と字幕が出て,前年1929年の秋に,花山天文台の落成式に友人と2人で出席したときに撮影した映像を取り込んでいる(山本 1959, 143).
その箇所で映し出されるのは「十二吋屈折鏡を収むる大ドームと七吋屈折鏡を収むる小ドーム」「回転しつゝあるドームと十二吋鏡の接眼部」「子午線館内の天文標準儀」「太陽館の外観」「太陽館内のシーロスタット其他」などである.
なお映画の冒頭に,パテ社のトレードマークである雄鶏を背景に,”CHISHIN”や”Pathé Baby”という文字をあしらったロゴマークふうのものが挿入されている(上図参照)(註2).
もう一つの興味深い作品は,「今邨先生を迎へて/昭和七年八月」である(註3).
地震学者の今村明恒(1870-1948)が,1932年8月の「第10回 島田夏期講座」の講師として招かれた.「第一回開講当年の関東大地震を回想」するという趣旨からである.
今村は1905年に統計的見地から関東地震を予言し,大森房吉と大論争を展開していた.また23年に関東大地震が起きてからは,震災予防調査会幹事として調査活動全般の中核を担っていた.そこで今村に白羽の矢が立ったのであろう.
この映画「今邨先生を迎へて」は,夏期講座で島田を訪れた今村が,第1回目の講義を終えたあと,蘭契会らのメンバーとともに車で大井川河畔を訪れた時の様子を写したものである.今村が河畔の断層を視察する様子などが捉えられている.
5分50秒あたりに「当日の交遊を記念すべく拙き此一巻を今村先生の座右に呈す/昭和七年八月/蘭契会員 清水真一」との字幕がある.この映画はおそらく今村にも贈呈されたのであろう.
また4分10秒あたりの箇所に「途すがらの車中,地球の内核の剛体である事が,南米の地震の横波が東大の地震計に感じた事による立証されるといふお話しなどをうかがひました」との字幕がある.
そして5分49秒あたりから「九月廿五日新聞紙は一斉に次の如き記事を掲げて我々が車中先生から伺った研究と発見とが世界の学界に発表される事を報じました」と字幕が出て,新聞記事が映し出される.
この新聞記事は,「時事新報」の1932年9月25日号からのものである.
3年あまり前の1929年6月27日,南米の東の大西洋で,大きな地震が起きた.その後,世界各地の観測データを集めることで,震源が南米南端から東に2000kmほどの所にあるサウス・サンドイッチ諸島付近(東京の対蹠点(地球のちょうど裏側)に近い位置)の海底であることがわかってきた.そして東京帝国大学の長周期地震計で観測していた地震波が,その地震で発生し地球内部を直進してきた横波震動であることが確実になり,これにより地球の内核がかねて推測されていたように剛体である(液体ではなく)ことが確認されたのである.
この経緯について今村は,今村(1933)に詳しく書いている.
なお,このほかに「石井獏 舞踊」(1926年)も,パテーベビーの歴史との関連で興味深いものであるが,これについては別稿(杉山 2022)で述べた.
註1: 石山とは,滋賀県大津市南部にあった旧石山町.近江八景の一つ「石山の秋月」でも有名な景勝の地.八瀬とは,京都市左京区に位置する旧八瀬村.比叡山の西麓にあり,比叡山への登山口である.
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註2: パテ社のトレードマークが雄鶏なのは,雄鶏はフランス国家の象徴的動物であり,パテ家の家業がもと精肉業であったことに由来するという(福島 2019, 39)).
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註3: 映画のタイトル表記は,今村明恒の姓が教育漢字の「村」でなく本字の「邨」となっている.
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参考文献
- 今村明恒 1933:「地震波に依る地球内部の打診」『岩波講座 地質学及び古生物学 鉱物学及び岩石学 第11』岩波書店.
- 清水真一 1959:「山本一清先生と思い出」『天界』40(408)142-145.
- 杉山滋郎 2022:「パテーベビーをめぐる日本国内の状況―1920年代を中心に―」https://hos.dojin.com/20220701katei/
- 福島可奈子 2019:「戦間期におけるパテ・シネマ社の小型映画産業とその興亡」『映画研究』14号,28-49.