ハンスギルグとは,いかなる人物か

ハンスギルグなる人物が「重水に関する情報」を朝鮮窒素肥料株式会社の研究部門にいた田代三郎にもたらした、と別の記事で書いた。そのハンスギルグとはどんな人物か、簡単にまとめておこう。

ハンスギルグ(Fritz Johann Hansgirg)は、1891年にオーストリアのグラーツに生まれ、電気化学者、金属学者として活躍した人物である。そして1935年から日本マグネシウム金属株式会社の副社長となり、技術指導にあたった。

日本マグネシウム金属株式会社とは、日本窒素肥料株式会社が American Magnesium Metals Corporation(以下AMMC)の所有する特許(酸化マグネシウム電熱還元法)を事業化するために同社と提携して1934年に設立した会社で、金属マグネシウムの製造およびその合金の製造を事業とした。ハンスギルグはその「酸化マグネシウム電熱還元法」の発明者で、1934年に米国特許を取得しAMMCに譲渡していた。そうした関係で、1935年以降、日本マグネシウム金属株式会社の副社長として技術指導にあたったのである。

日本マグネシウム金属株式会社の外観.出典:『日本窒素肥料 事業大観』p.136.

同社が製造したマグネシウムは、他社の製品と違い「絶対にクロリン[塩素]等を含有せず純度は99.9\%に達する」「実に無限の賞賛に値する」ものだった、と日本窒素肥料の社史は述べている。

日本マグネシウム金属株式会社の社長は野口遵で、工場は朝鮮窒素肥料の興南工場内にあり、経営も専ら朝鮮窒素がつかさどっていた。したがって朝鮮窒素肥料の研究部にいた田代三郎とも接点があったであろう。

歴史家マローニーは「吹き荒れる国粋主義にもかかわらず、日本マグネシウム金属株式会社の経営には外国人が強くかかわった」という趣旨の指摘をしている。しかしハンスギルグの場合、やがて彼自ら朝鮮を去る。その経緯はこうだ。

彼は1939年に、家族との再会および事業に関する交渉を目的にオーストリアに一時帰国する。ところが第二次世界大戦が勃発し、ウイーンでゲシュタポによって身柄を拘束され、長期にわたり尋問をうける。だが最終的には出国を許され、1940年2月に日本マグネシウム金属株式会社に戻った。しかしその間に政治情勢が激変していた。ハンスギルグは枢軸国に熱狂する社会風潮にショックを受け、5月に居をアメリカに移す。

その数ヶ月後、1940年の8月に、海水からマグネシウムを得る方法を考案して、サンフランシスコのMarine Magnesium Products Corporation にその権利を譲渡した。ところが翌1941年の8月、スパイの疑いで逮捕される。やがて釈放されるが、その後も保護観察下に置かれた。しかし最終的にはスパイの嫌疑は晴れたという。

参考文献:
日本窒素肥料株式会社『日本窒素肥料 事業大観』日本窒素肥料株式会社、1937年.
“Fritz J. Hansgirg”, http://bmc.uncadighist.org/fritz-j-hansgirg/
Molony, B. Technology and Investment: The Prewar Japanese Chemical Industry, Harvard University Press, 1990.