『着氷』の挿絵

中谷宇吉郎は戦時中、岩波書店から「航空新書」シリーズの一冊として出版する予定で、『着氷』と題する書を執筆した(注1)。北海道のニセコアンヌプリなどで行なった、航空機への着氷を防止するための研究について、わかりやすく解説したものである。

しかし出版には至らなかった。戦局の悪化により、岩波書店が出版を断念したのである。原稿は中谷に戻された。

それから70年ほど後の2012年、「中谷宇吉郎 雪の科学館」友の会が、遺されていた原稿をもとに『着氷』を出版した(注2)

2012年に出版された『着氷』の表紙

その書には、柳瀬正夢の描いた挿絵が何枚か用いられている。中谷が1943年に出版した『寒い国』のために、満洲の人々の暮らしぶりを描いてくれた、あの柳瀬の絵である(注3)。

『着氷』には、ニセコアンヌプリで中谷と一緒に研究した黒岩大助のスケッチ画など、柳瀬以外の人が描いたものも含まれているが、次のものは、画風からして間違いなく柳瀬の描いたものであろう。

  • 第1図 雪空さして
  • 第4図 着氷をけずる
  • 第6図 南方基地にて

さらに、

  • 第18図 雪の洞
  • 第26図 温暖前線に於ける降雪図

も、おそらく柳瀬の描いたものであろう。

中谷宇吉郎 『着氷』 の第26図

ただしこの第26図は、明らかに、別の書に掲載されていた図を改作したものである。

アッセン・ジョルダノフ 『航空気象学』の第88図

アッセン・ジョルダノフ著『航空気象学』(注4)の120頁にある第88図と先の第26図とを比べてみると、第26図は、「高層雲 28°F」「温暖前線」「20°F」など一部の記述を除いて描きなおしたものであることが、一目瞭然である。

今日の感覚からすると、「○○を改変した」などの形で、原図についての言及があって然るべきだと思うが、そうした配慮は見られない。

第26図が掲載された『着氷』62頁の本文で中谷は、「ジョルダーノフというアメリカの飛行士が、飛行機操縦士のために著わした面白い本がある。それは多くの図や絵によって、飛行家が遭遇するいろいろの事柄について懇切に指導している本である」と書いているが、この記述から、第26図がジョルダーノフの著書に掲載された図をもとにしていると読み取るのは困難であろう。

そもそも当時は、図版を転載するとき今日のように出所を明示することもなかったから、この種の流用はかなり広く行なわれていたのであろう。

なおアッセン・ジョルダノフの『航空気象学』については、中谷は書評も書いている。

此の本は実に変つた本で、各節が全部、絵か写真かから成り、その説明が本文になつてゐる。……その絵が又極めてふるつたもので、水が蒸発して上空へ昇つて行くところは水に羽が生えて、それがはばたいてゐたり、寒冷気塊から冷い風が吹いて来るところには、アメリカの風の神らしいものが頬をふくらませて、息を吹き出してゐる顔が描いてあつたりするといふ調子である。見やうによつては、随分人を喰つた絵とも見られ、又卑俗な本とも言へよう。しかし考へやうによつては、敵国アメリカ人の持つてゐるふざけたやうで、その中に実際的なといふ強味を把握してゐるところがよく出てゐる本である(注5)。

アッセン・ジョルダノフ 『続・航空気象学』の第45図(一部)。左(あるいは左上)に、頬をふくらませて息を吹き出している「風の神らしいもの」が描かれている。

このように、同書の絵のユニークさに着目した中谷のことであるから、『着氷』の挿絵を柳瀬に描いてもらうにあたって、彼にもこの書のことを伝えたであろう。それで柳瀬は、『航空気象学』にある多数の挿絵の中から一枚を選んで改作したのではなかろうか。

『着氷』の「第8図 牽引力、揚力、重力、抗力」も、これら4つの力を4人の人物で表現している点で、ジョルダノフの本の挿絵が、風を「頬をふくらませて、息を吹き出」すことで表現しているのに通ずるように思えるが、この第8図に似た絵は、『航空気象学』中には見あたらない(注6)。

中谷宇吉郎 『着氷』第8図

注1)杉山滋郎 『中谷宇吉郎 人の役に立つ研究をせよ』ミネルヴァ書房、p.90
注2)中谷宇吉郎 『着氷』中谷宇吉郎雪の科学館友の会、2012年。出版に至るまでの経緯は、この書の「後記」に記されている。
注3)前掲 『中谷宇吉郎』、pp.88-90.
注4)アッセン・ジョルダノフ著、廣野太郎編訳 『航空気象学』(正続)、海と空社、1942年
注5)中谷宇吉郎 「正続『航空気象学』」『科学小論集』生活社(1944年)所収、pp.241-242
注6)なお、この第8図も柳瀬が描いたものかもしれないが、いささか画風が違うようにも思える。