2017年7月26日 追記
本稿掲載後、新資料をいくつか発見・閲覧しました。それをもとに本稿に加筆と訂正を施し、拙論「日本学術会議の「2017年声明」を考える」に、補論3として収めました。
日本学術会議の1963年10月の総会(第40回総会)では、この年8月の、自衛隊が南極観測の輸送業務を担当するとした閣議決定が問題となった。
会長の朝永振一郎が会長報告の中で、輸送業務を自衛隊(防衛庁)に担当させることを「執行部会議にはかった上で、遺憾ながら諒承せざるをえなかった事情を述べ、総会に事後承認を求めた(注1)」。それをうけて、さまざまな意見が噴出する。その詳細は省くが、二日間にわたる議論の末、結局は事後承認される。当時、学術会議第一部の会員だった永積安明が、その様子を次のように表現している。
……すでに閣議決定を見たうえ、会長が諒承した件について、今さら抗議することは、学術会議の良識でなく、……自ら政府に要望した南極観測そのものをぶちこわすことにもなり、一方、問題の重大性を苦慮した会長の責任をも追及することになるという配慮をもふくめての意見が、次第に多数の心理を占めはじめ……1963年10月25日、日本学術会議は、その成立以来はじめて、防衛庁に支えられて科学することを事後承諾したということは、ぬぐい去れない客観的な事実となってしまったのである(注2)。
その学術会議総会が終わった数日後、物理学の素粒子論分野の研究者たち(素粒子論グループ懇談会)が、南極観測再開の問題をめぐって「声明」を起草し、学術会議の有権者に署名を募る活動を始めた。その「声明」は、次のようなものであった。
去る8月14日南極観測統合推進本部は、今後の南極観測を防衛庁の協力のもとに行なうことを決定した。また学術会議秋期総会は、南極観測にたいする疑念の焦点である輸送問題の取り扱いを会長に一任したとつたえられる。
このような動きによって南極観測は軍事的諸機関の協力を得、その予算にたよって行なわれることになった。このことは日本の学術研究が軍事的機関と不可分な関係におかれる端緒となりうるものである。
学術会議はかつて日本の科学者の行なった戦争協力を深く反省し、戦争のための科学研究には今後絶対に従わないとの強い決意を表明し、その態度を堅持しつつ基礎科学振興五原則を声明し、日本の科学研究が研究者の自主性のもとに行なわれるべきことを強調した。われわれは学術会議のこのような立場を心から支持するものである。
しかるに、今回の事態は学術会議の本来の立場に全く反するものであり、学術会議によってまとめられつつある将来計画の実現を中核とした日本の学問の健全な発展の条件を危くするおそれがあると考えざるをえない。
以上の理由により南極観測統合推進本部の決定にたいし、われわれは強く抗議するとともに、学術会議がその本来の立場を堅持し、日本の学術研究の将来に禍根を残すことのないよう、善処されるよう強く要望するものである(注3)。
他方、日本学術会議に設けられていた原子核特別委員会(会長、坂田昌一)では、輸送を防衛庁に担当させるという南極本部の決定と学術会議の関係について、1963年秋の総会の前に学術会議会長(朝永振一郎)に質問状を出していたが、会長から文章による回答はなかった。そこで同委員会は、翌1964年の1月21日、学術会議の「会長が自動的に推進本部副本部長となっていることをやめる決議」を4月の総会に提案することを決めた。学術会議は戦争のための科学に協力しないと決議したのだから、自衛隊の協力で行なわれる南極観測事業に会長を出すな、という趣旨の提案である。「事実上の全会一致(朝永委員だけ“賛成に近い棄権”)」で、提案することが決まったという(注4)。
会長が自動的に推進本部副本部長となることを止めるという件は、1964年4月の学術会議総会では結局、「会長の判断により善処する」、ということになったようである(注5)。そして最終的には、1971年6月29日付で「閣議決定」(1955年11月4日)が一部改正され、学術会議の会長と事務局長が、南極本部のそれぞれ副本部長、委員となる条項が削除された(注6)。
自衛隊も加わった南極観測事業に学術会議がどう関与するのかが問題となる一方、自衛隊法の改正をめぐっても論議が巻き起こっていた。自衛隊が「南極地域観測に対する協力」を行なえるよう、自衛隊法の第100条に次の項を加えるという案が、国会に上程されていたのである。「自衛隊は、防衛大臣の命を受け、国が行なう南極地域における科学的調査について、政令で定める輸送その他の協力を行なう(注7)」。
この改正案について、たとえば社会党の大出俊議員は、次のように反対した。
文部省、防衛庁等は、海上保安庁にはこの運送業務をやる気も、やる能力もないので、防衛庁に移すのだと言っておりますが、海上保安庁長官は、本委員会において海上保安庁としてはやる気も、やる能力もあるのだけれども、政府の最高方針によってこれがきめられたと述べております。したがって、これは明らかに別な意図が存在する。…要するに、この法案が憲法を改悪し、第九条を削除し、自衛隊を合法化し、徴兵制度や紀元節の復活を意図し、再び軍国主義への道をたどろうとする、その道程の一つであろうと判断いたします(注8)。
学術会議の総会でも、この条文には問題があると、次のような指摘がなされた。
1961年に自衛隊法第100条が改正され、自衛隊が東京オリンピックに協力できるよう、次の項が追加された。「長官は、関係機関から依頼があった場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、国際的若しくは全国的規模又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会の運営につき、政令で定めるところにより、役務の提供その他必要な協力を行なうことができる。」「依頼があった場合には…協力を行なうことができる」というのである(注9)。
ところが今回の、南極地域観測に対する協力のための改正では、「長官の命を受け、…協力を行なう」となっている。これでは、「南極観測という学問的な事業は、自動的に自衛隊の「協力」参加が必須になるおそれがあるという、きわめて重大な問題に当面する(注10)」。自衛隊の南極観測への関与に対し強い警戒感が、学術会議の内部にあったことがわかる。
事態を複雑にする要因が、ほかにもあった。南極地域観測に対する協力のための自衛隊法改正は、「防衛庁設置法及び自衛隊法の一部を改正する法律案」という形で、いわゆる「防衛二法」改正の一部として国会に提案されていたのである。その「防衛二法改正」の眼目は、自衛隊を様々な面で増強することであった。それだけに、前述の大出俊(社会党)による発言も出てきたのである。また、自衛隊が南極観測に協力することはいいが自衛隊の増強は必要ない、したがって今回の防衛二法改正には反対だという政党(民社党や公明党)も、結果的に、自衛隊法第100条の改正に反対させることになったのであった。
この防衛二法の改正案は、1964年の12月になってようやく、与党の賛成多数により可決成立する。そして1965年秋、再開第一陣(第7次観測隊)が南極に向け出発した(注11)。
しかし、問題はまだ尾を引く。(つづく)
注1) 永積安明「日本学術会議40回総会報告―科学者と政治と―」『日本文学』第13巻第1号、1964年、p.42. 朝永振一郎は、1963年1月20日から和達清夫の後を継いで学術会議会長に就いていた。ちなみに永積安明は、神戸大学教授で国文学が専門。翌1964年には、いわゆる「永積安明教授沖縄渡航拒否事件」(琉球大学から集中講義に招かれた永積安明が、琉球列島米国民政府によって「入域」を拒否される、しかし学生を初めとする沖縄の人々の抗議運動の結果、ついに渡航を実現できた、という事件)の当事者となる。
注2) 永積安明、前掲報告、p.43. 永積はこの報告文で、次のような指摘もしている。この年の春の第39回総会で原子力潜水艦の寄港に反対する趣旨の声明が決議され、これに対し政府・与党が「はげしい攻撃を加えたため、[学術]会議の内部に、このさいかさねて政府を刺激するような提案は遠慮しようとする、微妙な心理状態が醸成されていた」。
注3) 『科学』(岩波書店)、第34巻第4号、p.231; 永積安明「南極観測と自衛隊参加―学術会議41回総会から―」『日本文学』第13巻第7号、1964年、p.74. この声明は、署名とともに、南極観測統合推進本部や学術会議、同会議会員などに送る予定であった。1963年12月20日現在「480名の署名が集まり、現在なお拡大中」で、翌年4月ごろには1000名を超えたという。
注4) 『科学』、前掲記事。永積安明、前掲報告。朝永振一郎は、学術会議会長であると同時に、原子核特別委員会の委員でもあった。
注5) 永積安明、前掲報告。永積によると、この総会では、南極観測隊の一部に「このような形での極地観測には参加しないと決意し、観測に関する委員会にも欠席する隊員さえ出はじめている」という趣旨の発言もあったという。
注6) 文部省『南極観測二十五年史』大蔵省印刷局、1972年、p.351. なお『学術会議二十五年史』はこの件について、「第40回総会(1963年10月)で「会長が会長たるの資格において参加することを可とする機関の範囲」がきめられたこと、及び南極観測が恒常的に実施され、統合推進本部は実施に関する機関と考えられたからである」と述べている(p.448)。
注7) 衆議院内閣委員会(1964年3月3日)議録。
注8) 衆議院内閣委員会(1964年6月25日)議録。
注9) 衆議院本会議(1961年4月27日)議事録。
注10) 永積安明、前掲報告、p.74.
注11) 宗谷に代わる新船と輸送用航空機の契約と発注は急ぐ必要があった。南極観測の再開第一陣(第7次観測隊)を1965年秋に出発させる予定で諸準備が進んでいたからである。そこで、契約・発注は法改正に先だって文部省が行ない、法改正が成立したあとの65年2月に防衛庁に移管するという方策がとられた。新船の船名は、一般公募をもとに「ふじ」とされた(文部省、前掲書、pp.7-8)。