南極観測隊の派遣と自衛隊(1)

『「軍事研究」の戦後史』では、軍事研究の範疇に、「軍(および軍関連機関)が資金、設備、ロジスティック、その他の面で支援する研究」も含まれるとした(注1)。このうち、ロジスティックの面で支援を受ける研究については、本文中で具体例を挙げることができなかった。そこで何回かに分けて、二つの例を挙げておきたい。一つは自衛隊からの支援、もう一つは米軍からの支援である。

2017年7月26日 追記
本稿掲載後、新資料をいくつか発見・閲覧しました。それをもとに本稿に加筆と訂正を施し、拙論「日本学術会議の「2017年声明」を考える」に、補論3として収めました。


わが国の南極観測は、IGY(国際地球観測年; 1957年7月~1958年12月)の学術調査に参加することを目的として、1957年度に始まった。当初は第2次(1958年度)までの観測隊派遣で終了する予定であったが、IGY以後も国際共同観測を続けようとの動きが世界の科学界に出てくるなどいくつかの事情から、2度にわたって観測隊派遣が延長された。そして1961年度の第6次観測隊派遣をもって、いったん打ち切られた(注2)。

打ち切りとなったのには、二つ理由があった。一つは、派遣を担う組織体制の弱さである。文部省に設置された南極地域観測統合推進本部(以下、南極本部と略記)が、日本学術会議南極特別委員会(以下、南特委と略記)と協力しつつ、総合的に事業を推進してきたのであるが、この体制は、IGYの観測事業に参加することを目的に「臨時的、応急的」に構築されたものであった。

もう一つは、輸送体制にかかわる問題である。これまで観測事業のための物資や人員の輸送には、海上保安庁の灯台補給船だった「宗谷」を改造して使用していた(運航の担当も海上保安庁)。しかし宗谷は船齢が古く、帰国するたびの修理に多額の費用が必要であったし、砕氷能力なども充分でなかった(ソ連のグレーシャー号や、アメリカのバートンアイランド号に助けてもらったこともある)。また、輸送船と昭和基地との間で物資を輸送するのにヘリコプターが不可欠である、ところがそれを運転するパイロットが海上保安庁で不足していた。これから養成するにしても3~4年は必要であった。こうした事情から、南極観測の一時中断も止む無しとの判断に至ったのである。

しかし再開を求める声は強かった。衆議院の科学技術振興対策特別委員会が、1962年2月に南極観測の再開を決議した(注3)。日本学術会議も同年の5月に「南極地域観測事業を恒久的国家事業として取り上げ」るよう政府に勧告した。6月には全国8都市で、観測隊長の講演と記録映画の上映からなる「南極観測報告講演会」が開催されるなどして、南極観測に対する国民の関心も高まっていた。「第二の宗谷の建造資金を集めよう」という呼びかけが、山形県のある小学校から全国に広まりさえした(注4)。

こうした関心の高まりを背景にしてであろう、1962年の12月には自民党が南極観測の再開を党の重要施策の一つに掲げるに至った。前月の11月には、第3次と第5次の越冬隊長だった村山雅美がNSF(全米科学財団)の招待でアメリカの南極観測基地(マクマード基地)を訪問・視察するのに、同党代議士の中曽根康弘と長谷川峻が同行してもいた。そして政府は、翌年1963年の8月、南極地域観測を「諸般の準備完了をまって再開する」と閣議決定する。

だが、この閣議決定にすんなり至ったわけではなかった。『南極観測二十五年史』は、その間の事情を次のように記している(注5)。

 再開準備の中で特に難航したのは前記輸送担当機関の問題であった。海上保安庁では依然要員特に航空要員の確保に困難があり、担当できないとの意向が強く、このため南極本部はこれら要員の充実している防衛庁の協力を求めることについて検討を進めた。
 しかし、防衛庁が輸送を担当することについては、学会の一部等では強い難色を示し、調整は難航した。学術会議や南極本部での会議では種々の論議があったが、ようやく昭和38年8月14日の第22回本部総会で輸送担当機関を防衛庁とすることに結着し、同年8月20日の閣議決定により、「南極地域観測は諸般の準備完了をもって再開するものとする。これが実施のため、常時観測体制を確立することとし、輸送(船舶、航空機等によるものをいう)は運輸省の協力を得て防衛庁があたるものとする」と決定された。

南極観測再開のため輸送面で自衛隊を活用するという方策は、早くも1962年3月23日の衆議院科学技術振興対策特別委員会で中曽根康弘によって提案されていた。同委員会に出席していた学術会議会長の和達清夫に向かって、こう述べている。

自衛隊が…オリンピックとかあるいは南極観測、そういう平和行為に協力するということはいいことだと思うのです。むしろ自衛隊が大衆化され、国民の中に入っていく一つのモメントにもなる。…自衛隊側の話によれば[オリンピックへの協力の時のように自衛隊法が改正され、法的に可能になれば]協力する意思があるということですから、学術会議側はこれを醜女の深情けとしないで、[自衛隊は]醜女じゃないのですから、…歓迎する方向に[学術会議内で]これを解決していただきたい(注6)。

中曽根のこの発言は、和達清夫が学術会議は自衛隊の協力を歓迎するかと中曽根から質問され、次のように答えたのをうけてのものであった。「私は学術会議の会長で同時に議長でありますので、議長は総会のことをちょっと申し上げかねます…」。つまり、学術会議の総会で議論してみないと、自衛隊の協力を受け入れるかどうか回答できないと答えたのである。

学術会議のなかには、自衛隊の協力を積極的に受け入れようとの意見があった。たとえば、かつて第1~3次観測隊長を務め、今は南極本部の委員でもあった永田武は、衆議院の科学技術振興対策特別委員会でこう述べている。「私自身は防衛庁に協力していただくことに、喜びこそすれ、決して反対をいたしておりません。多分学術会議の南極地域観測特別委員会の委員、つまり南極の端的な観測研究に直接責任を持っている諸君は私とほぼ同じ意見ではないかと思います(注7)」。

しかし永田がこう発言したのと同じ委員会で、中曽根は「学術会議の方からくるいろいろな風評を聞いてみると、必ずしも喜ばない空気があるやに承っておる(注8)」と述べている。学術会議内で反対意見がくすぶっていたことがうかがえる。とはいえ、「正式に文部省に対して反対であるというふうな話はまだ受けておりません」と文部政務次官の長谷川峻が述べている(注9)ように、学術会議として賛否がまとまっていたわけでもない。

南極観測に自衛隊が協力することについては、野党の中にも反対意見があった。たとえば社会党の三木喜夫が、1963年2月6日の衆議院文教委員会で、自衛隊の「海外派兵の糸口をつくる」ことになるのではないかと、荒木萬壽夫文部大臣に質した。これに対し荒木は、海上自衛隊はすでに毎年、遠洋航海をしているし、海難救助のため海外に行くこともありうる、「南極に学術研究のための人員、資材を輸送するだけの目的で、一年間に一往復する」のはそれと同様のことであり、ことさらに「海外派兵と騒がねばならない実体はない」と答える。しかし三木は納得しなかった。「今は自衛隊を学術研究に使うんだという考え方に立っておると思う」けれど、やがて主客が転倒することにならないか、「一番今こわいことは、科学と軍事とが結合するということです(注10)」。

その後、学術会議や南極本部でどのような議論がなされたのか、詳細は不明である。しかし、先の『南極観測二十五年史』からの引用にあるように、1963年の8月14日に南極本部の総会で、防衛庁を輸送担当機関とすることが決まる。そして1週間後の8月20日には、閣議決定に至る。

こうした展開は、学術会議総会での議論を経ることなく進んでいた。学術会議会長の和達が先に国会で、この問題については総会での議論を俟つ必要があると述べていたにもかかわらず、である。南極本部の副本部長と委員に、学術会議の会長と事務局長がそれぞれ就いていたから、8月14日の南極本部総会で両者がどう対応したかが、当然 問題となるであろう。

学術会議の総会は、2ヶ月後の10月に開催される予定であった。(つづく)


注1)杉山滋郎『「軍事研究」の戦後史』ミネルヴァ書房、2017年、p.v.
注2) 第6次観測隊は1962年2月に昭和基地を閉鎖し、第5次越冬隊員とともに南極を離れた。
注3) 1962年2月21日開催の衆議院科学技術振興対策特別委員会で、社会党の山口鶴男が「南極地域における科学調査に関する件」を決議として提案し、全員一致で承認された。その決議の最終段落は、次のように述べている。

…政府は南極地域における科学的調査の実施に関し従前の臨時的体制に捉われず、新に事業推進本部を内閣に置く等の措置により、恒久的且つ総合一体的な機構を確立するとともに、輸送船に原子力船の建造利用を考慮する等最新の科学技術を採用することとし、積極的に国際的協力の実をあげ国民の期待にこたえて万遺憾なき措置を講じ、本事業再開の速かな実現に格段の努力を傾注すべきである。

輸送船に原子力を利用するという考えは、同年2月15日開催の同委員会において、参考人として出席していた大屋敦(原子力産業会議副会長/原子力委員会原子力船専門部会長)が提起し、斎藤憲三委員(自民党)が「原子力船を観測用ないしは砕氷用に使用していくというお考えにつきましては、私も非常に賛成なのであります」、松前重義委員(社会党)が「これ[原子力船の利用も含め南極観測の早期再開を熱望すること]は与党も野党もございません」と、支持する意見が続いた。
注4) 朝日新聞、1962年6月14日。
注5) 文部省『南極観測二十五年史』大蔵省印刷局、1972年、p.7.
注6) 衆議院科学技術振興対策特別委員会(1962年3月23日)議録。なお、もっと以前に中谷宇吉郎が、海上自衛隊の艦船を使ってはどうかと提案したことがある。第1次観測隊が準備を進めつつあった頃、1956年4月のことである。「…たいていの国は、軍艦を使っている。…それで考えられることは、海上自衛隊の船が使えないかという問題である。海上自衛隊の現状は知らないので、主張するのではなく問題を提出するだけである。…」(読売新聞、1956年4月11日「お祭り騒ぎを排す 提唱したい海上自衛隊の応援出動」)。しかしこれは当時、一つのアイデアに留まった。
注7) 衆議院科学技術振興対策特別委員会(1962年5月8日)議録。
注8) かつて第5次観測隊が、ヘリコプターのパイロットが不足したため海上自衛隊から2名のパイロットを派遣してもらったことがあった。このときは、海上自衛隊から海上保安庁に出向し、海上保安庁の業務を担ってもらったのである。また、海上保安庁のヘリコプターS-58の1機が横転して大破し使用不能となったため、防衛庁から同型機を借りるということもあった。それに対し今度は、文字どおり海上自衛隊に協力してもらおうというのである。文部省『南極観測二十五年史』、p.5.
注9) 衆議院科学技術振興対策特別委員会(1962年5月8日)議録。
注10) 衆議院文教委員会(1963年2月6日)議録。