北海道帝国大学に低温科学研究所が誕生した(官制が公布された)のは、1941年11月のことである。そこに至るまでに中谷宇吉郎が果たした役割については、これまでにある程度、明らかにされてきた(注1)。しかし、同研究所の初代所長に就いた小熊捍(理学部長であり、低温科学研究所長を兼任した)の貢献については、詳しいことがわからなかった。『中谷宇吉郎』でも、低温科学研究所の建物の建設と実験装置の製作に必要な鉄を入手するため、工事が始まって間もない1940年11月の下旬に小熊が上京して企画院を訪れ、鉄の配給を頼み込んだという事実を指摘しているにすぎない(注2)。低温科学研究所の創設にあたり小熊捍が果たした役割を具体的に示す資料がほとんどなかったからである。
ところが最近になって私は、牧野佐二郎が小熊捍からの伝聞を書き残していることを知った。牧野佐二郎は、小熊捍(理学部動物学科)のもとで助手や助教授を務め、小熊が1948年3月に定年で退官したあと後任の教授となった、染色体の研究で知られる生物学者である。
牧野は、小熊捍(1971年没)の追悼文の中でこう記している。
[小熊捍は1937年に理学部長に就任し]理学部の発展に人事、施設両面の充実に貢献された。その後は、もっぱら大学の研究機関の整備完成に力を注がれ、研究者に豊かな研究の場をつくることに労力を向けられた。昭和8年[1933年]三井海洋生物学研究所(下田)、昭和16年[1941年]資源科学研究所(東京)などの設立に蔭の尽力をされたのもその信念による所と思われる。昭和16年(1941)北大に低温科学研究所をつくり、つづいて触媒研究所を設立(1943)され、それぞれ初代所長をつとめられた。…(注3)
牧野はまた、自伝ともいうべき書『我が道をかえりみて』でこう記している。
…[小熊教授は]1937年(昭和12年)に理学部長に任ぜられ、6年の在任中に理学部の研究施設の充実と研究の発展に心血を注がれた。“日本には教える場所があっても、研究者が自由に豊かに研究する場所がない”と私に話されたことがある。その信念のもとに低温科学研究所(1941)、触媒研究所(1943)の設立、学外においては資源科学研究所(1941)、国立遺伝学研究所(1946)を誕生させた(注4)。
牧野によるこれらの記述から、小熊は「研究者が自由に豊かに研究する場所」を創り出そうとしていたこと、そして「自由に豊かに研究する場所」として小熊が想定していたのは低温科学研究所だけでなかったことがわかる。
こうした牧野の記述は、小熊捍の講演「六十年の回顧」(1945年8月)がもとになっているものと思われる。牧野はこの講演の内容をノートに書きとめており(ただし逐語的でなく要点のみ)、そこには次のように記されている。
計画セル事業:若イ学者ノ研究ノ出来ル環境ヲ作ツテヤル必要ガアル。低温研究所。中谷氏。大蔵省。大学ニ経費ナケレバコチラデ出ストイフ。120万円ノ予算。70万円ニケヅラル。50万円ヲ海軍ニ出サセル。触媒研究所。堀内教授。資源科学研究所、岡田弥一郎氏トハカル。三代ノ文部大臣ニハカツテ出来タモノ。遺伝研究所ノプラン。国立遺伝研究所設立ノ急務、大臣ニ話ス必要ガアル。…(注5)
これを見ると、小熊は、低温科学研究所だけでなく他の研究所も含め、政治家に積極的に働きかけていることがうかがえる。小熊は学術界の重鎮として、かなりの力を発揮した(発揮し得た)ということであろう。
なお、低温科学研究所の創設予算の不足分50万円については、海軍の予算から廻してもらった(出させた)ことも明らかである。大蔵省、大学、そして海軍、この三者間のやりとりの詳細はわからないが、中谷宇吉郎もその交渉に、何らかの形で関与していたことがうかがえる。中谷宇吉郎と海軍との間に研究上の交流があったお蔭であろう(注6)。
注1) たとえば、杉山滋郎『中谷宇吉郎』ミネルヴァ書房、pp.69-75.
注2) 同上書、p.72.
注3) 牧野佐二郎「小熊捍博士を悼む」『生研時報』第23号、1972年8月、pp.70-71.
注4) 牧野佐二郎『我が道をかえりみて』1985年、自家出版、p.96.
注5) 牧野佐二郎『文献覚書VI(1940-45X)』北海道大学総合博物館所蔵。この資料(B5版のノート)の閲覧にあたっては、山下俊介氏(同博物館資料部)のご配慮を頂いた。
注6) 杉山滋郎『中谷宇吉郎』ミネルヴァ書房、pp.70-72.