映画の雑誌「サトポロ」とは ― 牧野佐二郎と映画(2)

生物学者の牧野佐二郎が仲間に加わって出したという「「サトポロ」という映画の雑誌」は、いったいどんなものだったのだろうか。

1925年6月に創刊された「さとぽろ」という雑誌がある。編集を担当した外山卯三郎の下宿、桑園館(北3条西14丁目)を発行所とし、博文舎(南2条西8丁目)で印刷したもので、「北海道大学の学部と予科の学生、それに予科の先生」8人による同人誌である。「さとぽろ」という誌名は、「バチェラーさんのアイヌ語辞典によると<さととは乾燥すること>で<ぽろは大きい>、つまり大きな地という意味だというので採用したのだという。定価50銭で、「毎号、冨貴堂の店頭」に並べられた。1930年に廃刊となるまで30号ほどが刊行されている(注1)。

しかしこれは、牧野のいう「映画の雑誌「サトポロ」」とは、どうやら別もののようである。桑園館発行のは「さとぽろ」であって「サトポロ」でないし、何といっても内容が「映画の雑誌」ではなく「版画と詩の雑誌」なのである。「さとぽろ」は、1924年秋ごろから東京で発行され始めた雑誌『詩と版画』をモデルにした同人誌であった。

しかも創刊時の同人は、外山卯三郎(予科の3年生)の呼びかけで集まった、相川正義(医学部3年)、伊藤秀五郎(予科3年)、伊藤義輝(農学部1年)、服部光平(医学部4年)、宮井海平(予科1年)、宮澤孝(医学部3年)、斎藤護国(予科の英語教師)の8人であり、牧野佐二郎(予科2年)の名前はない。その後、西村真琴(水産専門部の植物学教授)や田上義也(学外、建築家)など何人かが同人に加わるが、牧野の名前はやはりない(注2)。

北海道帝国大学の当時の雰囲気について、「さとぽろ」同人の一人、伊藤秀五郎が次のように書いている。

北大のわたくしたちのクラスには、外山[卯三郎]や吉田[好正]のほかにも、京大の英文科に移った安保常治(札幌大学教授)や、同じく兄弟の経済学部に転じた吉兼豪(旧名、吉松。故人)など、変り種が多かった。大正時代には、北大には内村鑑三、新渡戸稲造、志賀重昂から有島武郎、早川三代治などを生んだ学風の名残りがあって、北大を一種の教養大学(昔の欧米流のカレッジ)ぐらいに心得て選ぶ青年が、かなりいたのであった。大正十年[1921年]に北大の学生の手で相ついで発刊された「平原」「氷河」「歩み」「とどろき」「北大文芸」などの文芸活動は、そういう精神的文脈を背景として発動したものである。…
 文学だけではなく、大正七、八年から昭和四、五年まで[1918,19年から1929,30年まで」は、一般に学内の文化活動、クラブ活動が旺盛な時代であったようだ。札幌シンフォニーオーケストラが創設されたのも大正十年の十一月であったし、従来からあったスキー部、野球部、水泳部、庭球部、陸上競技部、旅行部などに加えて、サッカーやラグビーなどのいくつかの運動部も、大正十一、二年に誕生している(注3)。

牧野佐二郎も、こうした雰囲気の中に飛び込んだのである。映画に魅了され、映画をテーマにした同人誌を仲間と創ろうと思ったのだろう。「さとぽろ」にヒントを得て、さりとて同じ誌名というわけにもいかず、「サトポロ」としたのだろうか。しかし残念ながら、「さとぽろ」とは違って1年ほどしか続かなかったのだろう。

1926年の9月、『映画』と題した月刊雑誌が札幌で創刊された。映画評などを掲載する月刊誌で、発行元は「映画社」である。映画社は、松浦翠波や熊谷曉風といった活動弁士など22人の同人が設立したもので、雑誌『映画』を公刊するほか、「映画の夕」や映画に関する講演会を開催したり、映画愛好者が集まる「キネマリーグ」の創設を打ち出した(注4)。牧野らが「サトポロ」で先鞭をつけた活動をより本格化したものと言えるかもしれない。

なお、「さとぽろ」の1927年1月号(4巻1号)には、ヨーロッパ留学から戻って間もない小熊捍の手になる「ベルリン郊外」や、後に総長となる今裕(こん ゆたか)の「冬がれ」も掲載されている(いずれも版画作品)。(つづく)


注1) 札幌市教育委員会社会教育課(編)『札幌・大正の青春―雑誌「さとぽろ」をめぐって』札幌市教育委員会、 1978年、p.25; pp.43-44. 「さとぽろ」の編集者や発行所は、1926年1月の2巻1号以降、たびたび変わっている。また冨貴堂は、中村信以(のぶしげ)が1898年に狸小路で貸本屋として出発した、札幌の老舗書店。1906年に南1条西3丁目に移転する。出版事業や楽器販売なども手がけ、札幌の文化活動に貢献した。2003年閉店。
注2) 札幌市教育委員会社会教育課(編)、前掲書、p.43. なお、「さとぽろ」第2号の同人名簿には、女優の岡田嘉子とのちにソ連に亡命する杉本良吉(本名、吉田好正)も名を連ねている。ただし彼は「さとぽろ」に作品を書いてはいない。
注3) 札幌市教育委員会社会教育課(編)、前掲書、p.45. なお伊藤秀五郎は、1926年に仲間とともに北大山岳部を創立している。
注4) 『映画』第1巻第1号、映画社。