今や、太平洋戦争前など昔の新聞も、主要紙であればデータベースを使ってオンラインで手軽に読むことができるようになった。一昔前、縮刷版やマイクロフィルムで読むために図書館に出かけなければならなかったのとは大違いである。
ただ、一頃の夕刊については、その発行日に注意する必要がある。
下の図は、大阪毎日新聞1915年10月12日夕刊の第一面である。欄外上部を見ると、右から順にこう書いてある。
(日刊)
(明治廿五年三月廿五日第三種郵便物認可)
大正四年十月十一日
THE OSAKA MAINICHI SHIMBUN
第一万一千五百七十二号
(月曜日)
(No.11572, Oct.11,1915)
このことから、「これは1915年10月11日月曜日の夕刊で、11日夕方に販売(配達)された」と思ってはいけない。じつは、前日10日の午後に印刷され夕方から販売(配達)されたものなのだ。その証左に、上図の右端に縦書きされている新聞標題「大阪毎日新聞 夕刊」の下に、「十月十日」と記されている。
日付をめぐるこの事情については、同紙が10月9日(土曜日)の朝刊に掲載した「社告」を読めば理解できる(表記の一部を今日のものに改めた)。
来たる十月十一日より紙面を拡張し本紙を十二頁に改め、うち四頁を夕刊とし八頁を朝刊として発行致すべく候。ただし夕刊は十日より発行し、大阪、京都、神戸その他配達便宜の地方を限り当日配布し、その他の地方は朝刊とあわせて配布仕るべく候。…
一日ぶんの紙面12頁を「夕刊4頁と朝刊8頁に分けて発行」するのだから、10日夕方から配達された夕刊(11日付)と11日朝に配達された朝刊(11日付)とで一組であり、両者とも「第11752号」である。「朝夕刊セット」でなく「夕朝刊セット」なのだ。
だから、新聞の縮刷版やマイクロフィルムには、
10月11日夕刊 → 10月11日朝刊 → …
という順番で収録されている。
ところがオンライン・データベースで、1915年10月11日以降の新聞を「日付検索」すると、
10月11日朝刊 → 10月11日夕刊 → …
という順番で表示される。
今日のわれわれには馴染みのある順番だが、11日の夕刊は実際には11日朝刊より前に発行されていることに注意しなければならない1。
夕刊の日付を印刷日の翌日にすることは、この当時の慣行であった。たとえば札幌を本拠地とする新聞「北海タイムス」(北海タイムス社)も、1926年6月11日から夕刊を発行して「札幌、小樽を中心とせる附近鉄道沿線の読者は、社会万般の出来事を即日知悉す[る]ことが出来る」と謳ったのだが、その11日に印刷・発行した新聞の欄外日付は6月12日だった。
しかし、夕刊の日付に関するこうした慣行は1943年10月10日をもって終わる。翌11日からは各紙が一斉に、今日と同様に印刷し配布する当日の日付を欄外に記すようになった2。
したがって1943年10月10日より前の日付の新聞を読む時には、同じ日付の夕刊と朝刊では、夕刊のほうが先に発行されていることに留意する必要がある。
その後1944年の3月、戦況の悪化とともに夕刊の発行が取りやめとなる。戦後しばらくたって夕刊の発行が再開されると、再びかつての慣行(印刷・販売開始の翌日の日付を欄外に表示する)が復活する。欄外の日付が(今日のように)発行当日の日付に統一されるのは、1951年10月1日からである。したがって戦後まもないこの時期の夕刊についても、かつてと同様の留意が必要である3。
なお1915年より前に、一日の新聞を(朝刊・夕刊でなく)甲と乙に分け、それぞれ当日夕方と翌日朝に配達する、という試みがなされたことがある。東京日日新聞による1885年の試みである。
同紙は「社告」でこう謳った(読みやすいよう、今日の表記・表現に改めてある)。
明治5年[1872年]に発行を開始して以来今日まで13年間、用紙2枚、8頁だてで毎朝配達し、大祭日と日曜日は休刊としてきたが、来たる明治18年[1885年]1月1日より次のように改める。
東京日日新聞の一個号を甲乙の2種に分け、甲(1葉、4頁)は午前に編輯して正午に筆を止め、直ちに印刷に付して午後3時から7時迄に府下の得意先に配達し尽くし、前夜及び当日午前の内外事項を報道する。乙(1葉、4頁)は午後から編輯しその日の内外事項を網羅し、翌朝8時(暑中には午前7時)迄に配達し尽くす。甲号は毎夕発兌、乙号は毎朝発兌で、合わせて一個号となすものだから、読者諸君はその日のことをその日に知ることができて、この上もなく便利であろう。(中略)
地方の読者諸君へは、甲乙(前日午後発兌、本日午前発兌)一個号を合わせて、常例の郵便時刻に遅れることなく発送する(但し甲乙を別にして二度発送することも、特別のご注文によっては取りはからう)。
このように刊行日数を増し、発兌を朝夕両度にするけれども新聞代価ならびに郵送料とも従前通りで些かも増加しない。(後略)
こうして、「明治18年1月1日午後 木曜日 第3922号(甲)」が1日の午後(夕方)に、「明治18年1月2日午前 金曜日 第3922号(乙)」が2日の朝に配達された。
乙号の第1面が5頁となっていることからもわかるように、前日午後の甲号と当日朝の乙号とで一組(同じ3922号)である。
今日のわれわれの感覚からすると、朝刊が主で夕刊が従であろう。だがこの東京日日新聞の場合はむしろ、夕方に届く新聞が「正」、翌日朝に届く新聞が「続」という関係にある。新聞の題字が乙号では甲号に比べ小さいことも、乙号は甲号の「つづき」であることを象徴しているように思われる。
もっとも、東京日日新聞のこの「セット発行」の試みは1年で終わってしまう。その理由について春原昭彦はこう述べている。東京日日は「政府の御用紙と見られていたため、大勢はつねに不利で、部数も振るわず、そのばん回策としてこの朝夕発行が企てられたものらしい」が、定価は据え置いた一方で配達の費用がかさみ、読者もそれほど喜ばなかったらしい、と4。
- 大阪毎日新聞が夕刊の発行を開始したのは大正天皇即位の大典を記念してのことだった。前年に始まった第一次世界大戦に関連して大ニュースが殺到したという事情もあった。大阪朝日新聞も、大阪毎日新聞と協定を結んで同日に夕刊の発行を開始した。 ↩︎
- 具体的には、10月9日(土)印刷の「10月10日夕刊」が10月9日夕方もしくは、10日朝に(「10月10日朝刊」と一緒に)配達されたあと、10日は日曜なので夕刊の発行がなく、11日(月)印刷の夕刊が「10月11日夕刊」として11日夕方もしくは12日朝に配達された。 ↩︎
- 夕刊の発行は、日本新聞会の決定に基づいて1944年3月6日付(3月5日に印刷)の分から休止される。「戦局の緊迫に伴い新聞用紙の消費も最大限に節約し以て戦力ならびに軍需輸送力の増強に協力すべき時」なので、政府の「決戦非常措置要綱」に即応し、また配給労務も節約するためだとされた。終戦後、新聞用紙の不足が改善されると再び夕刊が出されるようになる。たとえば朝日新聞は1949年12月1日(11月30日印刷発行)から夕刊を出し始めた。とはいえまだ新聞用紙を十分に確保できないため朝刊と同部数を製作できず、「朝刊紙とは別個独立のもの」とし、名称も「夕刊朝日新聞」とした。今日のような夕刊(朝刊と夕刊で一組とし、両者で記事の重複がないようにしたもの)の発行は、1951年10月1日からである。 ↩︎
- 春原昭彦『四訂版 日本新聞通史』(新泉社、2003年、p.59)。春原は、1885年の東京日日新聞によるこの試みが「欧米に類の無い日本独自の朝夕刊セット発行」の最初であるとしている。 ↩︎