池田すゞろ とは

「池田すゞろ」という人物の寄稿(社会時評的な随想)が、新聞「家庭」の30号(1928年9月)以降にときどき掲載されている。池田すゞろ(本名 池田源之助)とはどんな人物なのだろうか。

彼について平塚常次郎が次のように述べている。平塚は、戦前に日露漁業(現ニチロ)社長、戦後は運輸大臣、衆議院議員などを歴任した実業家・政治家である。

池田は北海道のニシン漁場に生まれ、漁場の経営もやり、ニシン漁場のひとかどの若い親方でもあった。一代の健筆家茅原崋山の思想雑誌『内観』に関係し、短詩(新傾向俳句)の選者も長くやるなど、魚舎の詩人『すゞろ』のペンネームで通りのいい人。若い頃は、雄弁家の鈴木正吾氏らと政治運動に乗り出し、尾崎咢堂、中野正剛とも親しかった。

池田は「家庭」58号に寄せた「誌上アパート」という文章で、鰊漁業に対する北海道庁の政策を批判するなど、漁業関係者らしい発言をしている。

他方、「車窓漫言」(「家庭」41号)や「旅先のトランクから」(57号)などでは、旅の途中で見聞きしたことへの随想を綴っている。

池田すゞろ「車窓漫言」の一部(「家庭」41号より)

俳人としても活躍したようで、平塚による先の紹介文にもあったように、雑誌『内観』で「愛の放射」と題した俳句コーナーの選者を一時期、務めていた。

『北海道俳句史』には、「すゞろは、はじめ黒松内で「石楠草社」を創り、のち寿都へ移って「麟光社」を結成した」とあり、「雪疲れ妻の差出す巻煙草の一本なりし」という句が紹介されている(木村敏男『北海道俳句史』北海道新聞社、1978年、137頁)

池田は「函館日日新聞」で、新俳句の選者を担当したこともあるという。また雑誌『さとぽろ』の同人でもあったようで、北海道帝国大学の小熊捍や西村真琴とも交流があったようである。

『さとぽろ』は北海道帝国大学の教官や学生などが中心となって1925年に創刊された、詩と版画の雑誌である。

池田源之助は1933年に『電燈に賦課する電球税論:電灯値下の新戦術 市町村歳入赤字の解決の鍵』という書を内観社から出したり、樽岸村の村会議員を務めるなど、政治活動にも手を染めていた。

戦後の1957年には、『野鼠・家鼠の惨害と根絶法』という書を博友社から出版している。平塚常次郎いわく、池田は「ネズミの研究家でもあった」のである。

さきに引用した平塚による池田の紹介文は、平塚が『野鼠・家鼠の惨害と根絶法』に寄せた「推薦の言葉」の一部である。

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