福山甚三郎は「体操のおじさん」

新聞「家庭」の第75号(1933年8月15日発行)に、福山甚三郎が札幌ラヂオ体操会会長の肩書きで、「国民体育とラヂオ体操」という文を寄稿している。

札幌大通りのラジオ体操会(出典: 「家庭」第75号)

いわゆるラジオ体操は、1928年に「国民保健体操」として作られた。そして同年の11月1日から、ラジオでの放送が始まった。

そのラジオ体操は、当初、各家庭などで行なわれていた。だが、1931年の夏、東京に「ラジオ体操の会」(会長、永田秀次郎)が組織され、これを機に、団体(集団)での実施が始まった。

翌年の32年には「ラジオ体操の会」が全国へと広まる。「北は北海道樺太から南は九州の果まで、更に朝鮮、満洲をも加えてその会場数は約2千、参加延人員 約3千万」にも達したという。北海道では、札幌を含む6市4町村で開催された。

その年の札幌での体操会の折、「せっかく養った習慣を何とかして続けたいもの」だということになった。そこで何人かの同志が集まって「札幌ラヂオ体操会」を組織し、夏の全国的な体操会が終わったあとも、札幌大通り公園の永山将軍銅像前で毎朝、開催し続けた。

日曜も祭日も休みなく、一年を通しての開催である。「1月元旦の大通りにおける雪中体操、あるいは零下20数度に下がった朝の耐寒体操などは、実に壮絶そのもの」だ、と甚三郎は「家庭」への寄稿文に記している。

1933年の6月には中島公園でも体操会を始め、8月ごろには2箇所合わせて2千人ほどが参加するようになった。

甚三郎は先の記事のなかで「遠からぬうちに数カ所の支部を市内の要所に増設し、更に進んでそれを全道に及ぼし…」と述べてもいる。

実際にどのように発展していったのか詳細は不明である。だが第二次世界大戦後の1969年に、甚三郎は第20回放送文化賞を受賞する。放送を利用する側に(放送を作る側ではなく)放送文化賞が贈られたのは珍しいという。受賞理由は次の通りであった。

ラジオ体操草創期から多年にわたり率先してこれを実践するとともに、ラジオ体操連盟役員として放送の普及を組織的に推進し、わが国放送文化の向上に寄与された。

『札幌とともに半世紀 NHK札幌放送局のあゆみ』

甚三郎の母校 創成小学校(当時は中央創成小学校)の百年史『創成百年』は「同窓会員の活躍」のコーナーで、甚三郎を「体操のおじさんで親しまれている」と紹介している。

なお甚三郎が1932年から「札幌ラヂオ体操会」の会長として先頭に立って活動したのは、東京の「ラジオ体操の会」の会長が、新聞「家庭」にしばしば登場する永田秀次郎であったことも関係しているかもしれない。(甚三郎の「国民体育とラヂオ体操」が載った「家庭」75号にも、永田秀次郎の連載「世界的日本への希望 五条」が載っている。)

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参考文献
・日本放送協会(編)『ラヂオ年鑑』日本放送出版協会、1933年
・中山竜次『ラヂオを語る』誠文堂、1933年
・NHK札幌放送局『札幌とともに半世紀 NHK札幌放送局のあゆみ』NHK札幌放送局、1984年
・札幌市立創成小学校(編)『創成百年 札幌の生いたちとともに』創成小学校創建百年記念事業協賛会、1971年