小樽新聞社の飛行機事業

1926年、北海タイムス社だけでなく小樽新聞社も、飛行機事業に乗り出そうとした。小樽新聞社による事業展開ぶりを、(ごく初期に限って)同社の新聞記事をもとに追ってみよう。

小樽新聞社の北海1号機(出典: 小樽新聞、1926年7月30日)

事業計画のはじまり

1926年6月、小樽新聞社が「小樽新聞」紙上で、北海道定期航空協会を設立する旨を発表。
東亜飛行専門学校(千葉県津田沼長)校長の川辺佐見、伊藤飛行機製作所所長の伊藤音次郎と協議のうえとのこと。

目的
北海道航空航路網の完成に必要な一切の事業ならびに空中文化に関する趣味知識の普及および之が経済化と道出身操縦士を養成すること。

事業計画
第1期: 札幌・小樽・旭川、札幌・青森の通信物定期輸送
第2期: 札幌・稚内・大泊
第3期: 小樽、函館、室蘭、釧路、網走、稚内など本道海岸の水上航空

使用飛行機
三菱10年式300馬力、2機。近く製作を終わり、1台は陸送で、1台は東京(立川飛行場)から飛来させる。

東京札幌間の縦断飛行の計画

1926年7月、札幌到着当日の予定を発表。
北海号
(大蔵操縦士): 札幌上空を1周後、小樽を訪問して上空で3周、札幌に引き返して着陸場(札幌北20条東1丁目の興農園牧場)に着陸
ニューポール機(80馬力、鈴木飛行士。すでに札幌にあった「予備機」): 札幌から苫小牧上空まで飛行して北海号を出迎えたあと、着陸場上空で、横転逆転・木の葉落とし・錐もみ・横滑りなどの曲技を披露して着陸

7月20日
翌21日に予定していた飛行、延期

7月31日
立川飛行場を午前8時に出発、盛岡へ向かう。しかしエンジンに不調があり、10時20分すぎ仙台の宮城野練兵場に不時着。修理後、13時50分に盛岡へ向かって出発、14時53分に盛岡到着。この日は盛岡止。

8月1日
7時30分に、札幌に向け出発の予定。しかし八戸に「曇天降雨に加えて濃霧」があり、15時30分、同日の出発を断念。「明日は申し訳のため死を賭しても決行する」と大蔵飛行士。
札幌ではニューポール機が国産振興博覧会の上空で旋回飛行して祝賀ビラ1万枚を散布。

8月2日
6時5分、盛岡を出発。8時40分、白老上空を通過。9時15分、札幌の興農園牧場に着陸。
八戸から海上に出たところが濃霧のため「大難航を続けたため」予定より1時間の遅れ。ガソリンが欠乏して、止むを得ず小樽に向かうことなく札幌に着陸。着陸滑走の際、「牧草に蔽われた小溝に前車輪が埋没したので車輪とプロペラに破損」が生じた。小樽訪問飛行は別の日に行なうことにする。

その後

8月5日
ニューポール機(北海号ではなく)が札幌(興農園牧場)から旭川(練兵場)への訪問飛行。翌6日、札幌に戻る。

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