福山甚三郎の大阪での同窓生と北海道

福山甚作(甚之助の長兄で、のち父の名を継いで甚三郎となる)は大阪高等工業学校の醸造科を1905年7月に卒業した。

その醸造科を同じころ卒業した者のなかには、甚作のほかにも北海道で活躍した人物がいる。

大阪高等工業学校の醸造科工場
出典: 大阪高等工業学校(編)『大阪高等工業学校一覧』自大正5年至6年、大阪高等工業学校
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/940907

一人は、大阪高等工業学校醸造科で福山甚作と同期だった中村諭治郎である。

中村は、醸造科を卒業したあとさらに1年間、研究生として同校に在学したあと、函館の鶴岡町で清酒醸造業を自営した。しかし若くして(1929年ごろまでには)亡くなったらしい。

もう一人、甚作より3年前に醸造科を卒業した(第1回卒業生)本間栄吉も北海道で活躍した。

本間は新潟県の出身であるが、卒業後、旭川の今井商店醸造部に就職する。

札幌に本店がある今井商店は、旭川にも丸井呉服店を開設するとともに、1899年9月から味噌・醤油醸造所の経営も始めていた。大阪高等工業学校の醸造科を1902年に卒業した本間は、そこに勤め始めたのである。

しかし彼はやがて(遅くとも1908年ごろには)台湾製糖株式会社に転職する。同社の阿緱あこう酒精工場などで技師として活躍したようである。

なお、今井商店が旭川に進出したのは、陸軍第七師団が設置されることで同地域が急速に発展すると予想したからである。『丸井今井九十年史』は次のように述べている(p.93)。

明治30年〔1897年〕旭川丸井呉服店開設に次いで翌31年、第七師団御用達を命じられたのを機に、周辺の広大な農村から生産される豊富な資源に着目し従来本州からの移入にまたなければならなかった醤油の道産醸造を計画し、この年から工場建築にかかり大谷岩太郎氏を初代支配人とし、明治32年〔1899年〕開場、亀甲丸井印醤油の醸造を開始した。

第七師団は1896年に札幌に仮設置されていたのだが、部隊を拡充するために鷹栖村に移転することが99年に決まった。そして翌年、札幌から部隊の移動も始まった。

今井商店の醸造所はその後1920年に、今井醸造株式会社(今醸いまじょう)として独立し、株式会社丸井今井の姉妹会社となった。

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