清水真一の,天文学と写真撮影への関心

天文写真の撮影に腕を揮った清水真一は,いつ頃,どのようにして,天文学や写真撮影に関心を持つようになったのだろうか.

清水真一が自宅屋上に設けた「知新観象台」(出典:『天界』14(156)口絵)

清水によれば,自分が「初めて天文の話を聞いたのは1922年のこと」だという.この年の10月31日に「私の所属団体」の主催で,京都帝国大学理学部の新城新蔵に「天地開闢 付相対性原理」という題で話してもらった時のことである(清水 1959; 清水 1985)(註1).

この1922年は,11月にアインシュタインの来日を控え,相対性理論への関心が高まっていた.講演題目に「… 付相対性原理」とあるのは,そうした世情を反映してのことであろう.

その翌年,1923年の11月27日には再び新城新蔵を招き,今度は「地震の話」(蘭契会による「文化講壇」の第10回目)をしてもらったと清水はいう.この年の9月1日に関東大地震が発生し,地震への関心が高まったからであろう.新城は地震学の専門家ではないが,前年の講演会で新城との繫がりができていたので,彼を講師に招いたものと思われる(註2).

そして関東大地震の翌年,1924年には,「島田夏期講座」の第2回目が開催された(註3).開講科目は次の通りである.

  • 「近世音楽概論」 田辺尚雄(理学士)
  • 「比例代表法外三題」 野村淳治(法学博士)
  • 「宗教概論」 松本文三郎(文学博士)
  • 「教育の本質及教育問題」 小西重直(文学博士)
  • 「天文学概観」 新城新蔵(理学博士)

またもや新城新蔵が講師に招かれている.そして講義の内容は天文学であった.

この第2回目の夏期講座に「天文学概観」という科目を盛り込むに当たっては,清水が重要な役割を果たしたと思われる.1922年および23年の講演会を通して清水は新城新蔵との交遊関係を深めていき,天文学への関心も強めていたと思われるからである.

1924年夏の「夏期講座」に先立つ1922年の講演会に新城新蔵を招くにあたっては,清水は京都帝国大学に在学中の友人の伝手を頼ったという(清水 1985).だから1922年の時点では,清水と新城新蔵との間に交遊関係はまだなかった(あったとしても弱かった)と思われる.

しかし清水は1923年11月に再び新城を島田に招き,そして翌1924年の初めには天文同好会(のち東亜天文学会)に入会している.だからこの間に,清水は新城新蔵との交遊関係を深めていき,天文学への関心も強めていったと思われる.

次のエピソードからも,清水がこの頃,天文観測への熱意を高めていたことがうかがえる.1924年の島田夏期講座に,新城が屈折望遠鏡を持参した.すると清水は,その望遠鏡を2ヶ月程拝借し,土星の環などを観測したというのだ.

では,写真撮影の関心はいつ頃からだろうか.清水は後年,「天文の基礎学をやっていないので,子供の時から手がけた写真で観測」したと語っている(清水 1959).だから,清水が写真撮影に興味を持ったのは,天文学に関心を抱くようになるよりずっと前のことである.

また清水と同郷の柴田宸一は,清水は「早くより写真術に興味を抱き,最初は目薬の箱に穴を開け,ピンホール写真を写したり」していたと回想している(柴田 1986).

清水の撮影した天体写真が天文同好会の雑誌『天界』に掲載され始めるのは,1934年に入ってからである.3月号に「プレヤデスの美観」,4月号に「去る2月14日の日食写真」,8月号に「去る5月19日の太陽黒点」「木星の種々相」といった具合である.

しかしそれより前の1920年代後半には,すでに写真の撮影・現像の腕前は相当のものだったと思われる.その証左に,1928年出版の『大井川写真案内記』に「知新写真部」の撮影した大井川周辺の写真をいくつか提供している.また同年に島田保勝会が秩父宮殿下の結婚を祝して,南アルプスや大井川沿岸の風景を収めた写真集を宮家に奉献するにあたり,清水が写真の引き伸ばしを担当している(蘭契会 1928).

なお清水真一は,1909年に千葉医学専門学校の薬学科を卒業した薬剤師であったが,興味関心は広範囲に及んだ.漢詩や漢文に親しみ,篆書も得意としたという(清水真一翁顕彰会).また島田高等学校の郷土研究部の機関誌『大井川流域の文化』に「島田にある芭蕉翁の句碑」を寄稿してもいる(清水真一 1953-56).


註1: 「私の所属団体」とは「蘭契会」のことである.同会は1921年9月18日から1931年6月10日まで約11年間にわたり「文化講壇」を23回開催した.新城による「天地開闢 付相対性原理」の講演は,その第6回目のものである.新城によるこの講演は,蘭契会より『蘭契会叢書』第2篇として印刷され,希望者に贈呈された.
 なお「蘭契会」とは,静岡県島田市で青年団の幹事有志が地域文化の興隆をめざして組織した会で,1919年から1932年頃まで存続し,各種の講演会や講習会,展覧会,音楽会などを開催した.清水真一も蘭契会の会員であった.
 「蘭契会」という名称は,「金蘭の契」(きわめて親密な交わりという意味)という『易経』の語に因んだものという(島田市史編纂委員会 1973, 524).
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註2: 蘭契会による「文化講壇」全23回の講演者および講演タイトルは,(島田市史編纂委員会 1973, 527)にまとめられている.
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註3: 「島田夏期講座」は「堰東教育会」と「蘭契会」の共催で行なわれた.出席者の名簿から推測するに,教育関係者を対象とした研修会のような性格のものだったと思われる.1923年から32年まで10回にわたり開催された「島田夏期講座」の講師,講義題名は,(島田市史編纂委員会 1973, 528-9)にまとめられている.なお,この夏期講座での講演を筆録したものが作成された(少なくとも第2回までについて)ことが確認できる.
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参考文献

  • 柴田宸一 1986:「清水真一先生の御逝去を悼む」『天界』67(8)(735),246-7.
  • 島田市史編纂委員会(編) 1973:『島田市史』下巻,島田市.
  • 清水真一 1953-56:「島田にある芭蕉翁の句碑」『大井川流域の文化』[第1]3号,島田高等学校郷土研究部.
  • 清水真一 1959:「山本一清先生と思い出」『天界』40(408),142-145.
  • 清水真一 1985:「ハレー彗星と私」『天界』66(3)(718),69-70.
  • 清水真一翁顕彰会: 清水真一翁顕彰会のウエブページ,https://www.itsumono.com/shimizu/index.html
  • 蘭契会(編) 1928:『大井川写真案内記』島田保勝会.