以前の記事に記したように、アムンゼンは札幌を訪れたときバチェラー家を訪問した。それは何故だったのだろうか。
当時の記録には、「バチェラー博士を訪いアイヌ人の話をきく」、「[アムンゼン]氏の発意からバチェラー氏を訪問、氏宅のアイヌと語りバ氏からアイヌに関する談話を興味深く聴い」た、と記されている(注1)。
アムンゼンがバチェラーに会ったのは、アイヌの研究家としても知られていたバチェラーからアイヌについて話を聞くためであった、それもアムンゼンが望んでのことであったことがわかる。
では、アムンゼンはどうしてアイヌに関心を持っただろうか。
その疑問に答えるヒントが、佐藤忠悦による書『南極に立った樺太アイヌ:白瀬南極探検隊秘話』(青土社)にあるように思う。
1910年11月、白瀬矗を隊長とする南極探検隊が開南丸で東京を出発し、12年1月16日に南極に上陸、南緯80°5′の地点(大和雪原と命名)まで達した。(その後、食糧不足などから探検を断念して帰国する。)
この探検のとき白瀬隊は28頭のカラフト犬に橇を引かせて食糧や資材を運んだ。カラフト犬は、体重40kg以上という大型犬で牽引力が強く、耐寒性に優れ、人間に従順でもあり、樺太では冬期の運輸交通機関(犬ぞり)に無くてはならないものであった。白瀬たちは、そこに目を付けたのである。
カラフト犬を集めるにあたっては、樺太に住むアイヌ人たちが積極的に協力した。世界の列強を相手とする日本の極地探検に貢献することが、自分たちアイヌの地位向上にもつながるだろう、との思いもあった。
中心になって活動したのは山辺安之助と花守信吉である。二人は白瀬隊のメンバーとして開南丸に乗って南極まで行き、犬ぞりの運行と犬たちの世話、さらには隊員たちの食事の準備でも活躍した。
白瀬隊と同じころノルウエーのアムンゼン隊、英国のスコット隊も南極に来ており、白瀬隊よりも少し早く南極点めざして出発していた。アムンゼン隊はグリーンランド犬に橇を引かせ、スコット隊は馬に橇を引かせた。この犬と馬の違いが、アムンゼン隊とスコット隊のどちらが世界初の南極点到達に成功するかを決める要因の一つとなった。馬に比べ犬のほうが、身軽で忍耐強く、酷寒に慣れており、食糧の点でも扱いやすかったからである。
そのアムンゼン隊と、白瀬隊は南極で交流していた。1912年1月17日、白瀬隊の船長らがアムンゼン隊のフラム号を表敬訪問し、翌18日にはフラム号のニイルセン船長が返礼に開南丸を訪れたのである。こうした交流を通してアムンゼンが、白瀬隊のカラフト犬とそれを操るアイヌ(山辺安之助と花守信吉)に関心を抱く機会があった、と推測される。
このようにしてアムンゼンはアイヌ(そしてカラフト犬)への関心を抱くようになっていた、だからこそ日本の札幌を訪れた機会にアイヌについて詳しく話を聞こうと考えたのではなかろうか。
注1: 前者は「アムンゼン氏日本在日記」『優生運動』第2巻第9号(1927年)104頁より、後者は「北海タイムス」1927年7月4日第7面の記事「ア氏の札幌入り」よりの引用。
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