池田林儀と報知新聞の関わり

1927年に報知新聞の招きでノルウエーの探検家R.アムンゼンが来日した時、池田林儀しげのりが通訳の一人として活躍した。それは池田が、報知新聞の社員だったことと大きく関係している。

池田林儀は、1892年に秋田県由利郡小出村(現、仁賀保町)に生まれ、東京外国語学校シャム語科を卒業した。大日本雄弁会講談社に入社したのち、大隈重信が主宰する雑誌『大観』の記者を経て、報知新聞で大隈重信の専属記者となる。

そして1920年に池田は第一次世界大戦後のベルリンに報知新聞の特派員として派遣され、25年に帰国した。

その後1929年2月にもドイツに派遣され、4月22日に帰国する。報知新聞社はこの年5月に神宮外苑グラウンドで「日独競技大会」を開催し、それを機に経済、産業、貿易、文化などの面で「日独親善の大運動」を巻き起こすことを計画していた。そこで同社では社長の大隈信常から日本刀(備前吉包よしかねの一口)をドイツのヒンデンブルグ大統領に贈呈することにし、社長の代理として池田林儀を派遣したのである。

このときの池田の身分は、報知新聞の嘱託だった。池田はこれより先の26年11月に、報知新聞の仕事の傍ら雑誌『優生運動』を創刊しており、28年の夏には優生運動に専念するため報知新聞を退職してしまっていたからである。

池田林儀の『優生運動』(1929年)の扉
(国会図書館デジタルコレクションより)

報知新聞と大隈家との関係についても記しておこう。

報知新聞は、1872年創刊の郵便報知新聞が1894年に改題して誕生した大衆紙である。その郵便報知新聞は、1882年に大隈重信が立憲改進党を結成すると一時その機関紙となったことがあり、大隈重信との関係が深かった。その後、1886年11月に矢野文雄社長が紙面改革を行ない、定価を下げて営業新聞への道を歩み始める。1927年12月からは大隈信常(大隈重信の娘婿)が社長となっていた(注1)。


注1: 報知新聞は明治末期から大正初期にかけて東京で第1位の部数を誇った。だがやがて「朝日新聞」や「毎日新聞」など大阪系の新聞に押されるようになり、1930年に講談社の野間清治に買収される。さらに42年に「読売新聞」に吸収されて「読売報知」となる。その後、第二次大戦後の1946年に独立して、夕刊紙の「報知新聞」として再出発するが、経営不振で49年に再び読売新聞に吸収される。1950年にスポーツ紙に転換し、1990年から「スポーツ報知」と改題して現在に至る。