福山甚之助が池田林儀のことを知る(そして「家庭」紙への原稿執筆を依頼する)きっかけは、アムンゼンの札幌来訪とは別のところにあったとも考えられる。
甚之助が池田の寄稿文「新興ドイツの現状」の冒頭で著者の池田について紹介するにあたり、「池田林儀氏は、先年彼の北極征服の偉人アムンゼン氏と共に来道せられ、その講演の通訳にあたられたかたであります」と書いたあとに、「同氏は又一面我が国の優生運動にも多大の尽力をせられて居ります」と続けてもいるからである。
つまり「家庭」紙の一般読者はともかく、甚之助にとって池田は「優生運動に多大の尽力をしている人」だったのである。
池田林儀は1926年11月に『優生運動』という月刊雑誌を刊行し始め、自らが主幹として健筆を揮っていた。
その池田が1929年の2月に報知新聞嘱託としてドイツに派遣され、4月に帰国した。そして雑誌『優生運動』の第4巻第5号(1929年5月発行)に「独逸より帰りて」と題した文章を寄せ、ドイツの現状などを詳細に紹介した。
このように池田はドイツの最新事情を知っていたのである。甚之助はそこに期待して、池田に原稿執筆を依頼したのではなかろうか。実際、池田林儀が「家庭」紙の第40号(1929年7月発行)に寄せた文章「新興ドイツの現状」は、雑誌『優生運動』の同年5月号に寄稿していた「独逸より帰りて」と同じ趣旨のものである(注1)。
では甚之助は、雑誌『優生運動』の池田の文章「独逸より帰りて」を読んでいたのだろうか。
読んでいたという直接の証拠はない。しかし読んでいた可能性があると思う。甚之助は優生運動(あるいは優生思想)に、大きな関心を持っていたからである。
甚之助が優生思想に関心を持っていたという根拠は、「家庭」紙の第44号(1929年10月)第一面に掲載された「産児制限問題」と題する文章である。その文章の趣旨は、人口の増加を抑制するために産児制限するという量的な観点からの施策では不十分であり、「質の優劣」を考慮する必要がある、すなわち人口政策に優生学的な観点を導入すべきだというものである。著者は「華堂生」となっているが、これは甚之助の筆名である。
また、雑誌『優生運動』を甚之助自身は購読していなかったとしても、たとえば小熊捍を通して、池田林儀の活動について話を聞いたり、あるいは『優生運動』誌を目にする機会もあり得たであろう。
小熊捍は北海道帝国大学の農学部で甚之助の1年先輩であり、「家庭」紙の発行を支援してくれるなど、甚之助と親しい関係にあった。そして小熊は、『優生運動』を刊行する池田の活動を、雑誌の創刊当初より支援し、「日本優生運動協会」の賛助員に名を連ねている。池田に次のような言葉を贈ってもいる。
暑いのに、相変らずご活動の由大慶に存じます。御申し越しの優生運動は、頗る思ひつき[=よい考え]と思ひます。微力ながら驥尾に附して、出来ることは御手伝ひいたします。(後略)
『優生運動』第1巻第1号、67頁。
なお、この当時の池田が主導した優生運動は、遺伝的な疾患者や不具者に「断種手術」を迫るというよりは、(そうした主張を内包しつつも)配偶者を選択するにあたり遺伝的側面も考慮すること(結婚の改造)、良い体格や性格を作るのに努める(健康を保つだけでなく健康の増進を図る)こと、住みよい社会を作り出すのに努力すること、なども含むものであった。
このことを池田は、消極的・制限的な方面でなく積極的・建設的な方面に力点を置くものだ、とも述べた。
それゆえに池田は同志たちとともに、優生運動の一環として「優生学相談所」を設けて配偶者選択の相談に応じたり、ドイツのワンダーフォーゲル運動にならって「足の会」を始めたり、「丙午」の非科学性を啓蒙する活動に乗り出したりもしている(注2)。
そして「優生運動協会」の賛助員には、鳩山一郎(衆議院議員)や町田忠治(農林大臣)、植村澄三郎(日本麦酒常務取締役)、野間清治(大日本雄弁会主幹)、大隈信常(報知新聞社長)、沢柳成太郎(東北帝大、京都帝大の総長など)、石川千代松(進化論を日本に紹介したことで知られる動物学者)、田中義麿(九州帝国大学の遺伝学者)など、政界や経済界、学界の錚々たる人々が名を連ねていた。北海道帝国大学教授の松村松年(昆虫学)も、兄の松村介石(宗教家)とともに名を連ねた。
注1: 池田は1929年10月に『独逸復興の原動力』という書を優生運動社から発行する。これもまた新興ドイツの現状を詳しく紹介したものである。
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注2: 修繕医学、社会医学、優生学の三者が協力しあって「社会の改良」に貢献しうるようにとの目的で、1928年に「東京生物化学研究所」を設置してもいる。研究予定の課題のなかには、「乳牛研究による乳児脚気の根治法」や「チフスの予防になる醤油」なども含まれていた。
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