「家庭」紙の第40号と41号(発行は1929年7月と8月)に「新興ドイツの現状」と題する記事が載った。著者は報知新聞特派員の池田林儀である。
池田は「家庭」の主宰者 福山甚之助からの依頼を受けて原稿を執筆したのであろう。だとすれば、甚之助はこれより前に池田のことを知っていたはずである。
「家庭」氏の記事「新興ドイツの現状」の冒頭で、甚之助は池田についてこう紹介している。
池田林儀氏は、先年彼の北極征服の偉人アムンゼン氏と共に来道せられ、その講演の通訳にあたられたかたであります。
この紹介文から判断して、アムンゼン(注1)が北海道に来て講演したときに池田のことを知った(もしかしたら挨拶なども交わしたかも知れない)、という可能性があるのではなかろうか。
アムンゼン(1872-1928)はノルウエーの探検家であり、1911年に南極点への到達を人類史上初めて達成した。英国のスコット隊にわずか35日先んじての成功であった。
その後1926年5月には、アメリカのエルズワース(L. Ellsworth; 1880-1951)、イタリアのノビレ(U. Nobile; 1885-1978)らと飛行船ノルゲ号で、スバールバル諸島(注2)のスピッツベルゲン島から北極上空を経てアラスカのノーム近くに到達し、新旧両大陸を北極越しに空路で結びうることを実証した。
この快挙は、ノルウエーはもちろんアメリカやイタリア、そして日本でも大きな話題になる。そしてそのアムンゼンが、翌1927年に報知新聞の招きで日本にやってきたのだ。
6月20日に横浜港に到着し、23日から東京の報知講堂での講演を手始めに、浜松、大阪、京都、名古屋、松本で講演し、7月2日に函館を経由して同夜、札幌に到着した。
アムンゼンは翌3日、午前中に北海道帝国大学を訪問する。その時のようすを「北海タイムス」はこう報じている(一部の表記を今日のものに改め、句読点を補った)。
午前十時自動車を駆って北大を訪問し、中央講堂に総長代理高岡博士、松村、新島、今の各教授、小熊助教授の出迎えを受け、休憩室で南極談に花を咲かして、直ちに[山形屋旅館に]帰館の予定のところ自由な気持ちに打ち寛いだ氏は道庁佐藤技師の案内で構内を自動車で一巡し、第二農場を見て植物園に至り松村博士の説明で気儘な散策気分で絶えず諧謔交りに談笑し…。
その後アムンゼンは、札幌神社に参拝し中島公園を散歩したあと、豊平館での官民合同の歓迎会に出席した。午後は月寒や真駒内などを見物したあと、バチェラー博士(注3)を訪問する。
そして午後6時から「エンゼル館」(注4)で講演を行なう。この講演で通訳を務めたのが池田林儀だった(注5)。
こうして札幌にやって来た池田林儀に、甚之助はどこかの時点で、知遇を得る機会を持つことができたのではなかろうか。
なおアムンゼンは、札幌での講演を終えた翌日の朝に札幌を発ち、5日に仙台で講演、東京に戻ってからは歌舞伎を観劇したり歓迎会に出席したりしたあと、15日に東京を発って16日に敦賀港からウラジオストックに向かい帰国の途についた(注6)。
注1: アムンゼン(Roald E. G. Amundsen; 1872-1928)は、今日ではノルウエー語の読みに従い「アムンセン」と表記されることが多い。だがここでは当時の表記に従い「アムンゼン」とする。(南極探検を行なった1910年代には「アムンドセン」と新聞などで表記されていた。)
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注2: スバールバル諸島は、ノルウエー北部と北極点とのほぼ中間に位置する、ノルウエー領の島々である。スピッツベルゲン島は同諸島で最大の島で、しばしば北極探検の拠点とされてきた。
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注3: John Batchelor(1854-1944)はイギリス生まれのキリスト教宣教師で、1877年に来日し、アイヌへの布教活動を行なう傍ら、アイヌ語・アイヌ文化について広範な研究を行なった。
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注4:「エンゼル館」は、1913年に北2西3にオープンした映画館。このときの講演は「北海タイムス」紙に5日から「北極横断の壮図」と題して連載された。
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注5: 日本各地の講演では、池田林儀、鶴見祐輔、久留島武彦のいずれかが通訳を担当した。鶴見祐輔(1885-1973)は後藤新平の女婿で、語学に長け、1924年に鉄道省を退職したあと、ヨーロッパやアメリカ、オーストラリア、インドなどで遊説し民間外交を推めていた(1928年からは代議士として活躍する)。久留島武彦(1874-1960)は児童文学者。日本にボーイスカウトを紹介したことでも知られる。
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注6: アムンゼンはまた、天皇に御前講演を行ない(6月22日)、帝国飛行協会(総裁久邇宮殿下)から有功章を賜わってもいる(6月23日)。
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