サンガー夫人の来日(1)

国会図書館のデジタルコレクションで『山峨サンガー女史産児制限法批判』を読むに先立ち、サンガー夫人の来日の経緯についてざっと調べてみた。同書は、彼女の来日を機に出版されたものだからである。

アメリカの産児制限運動指導者であるサンガー夫人(Margaret H. Sanger; 1879-1966)については、伝記などがあるものの、1922年に日本を初めて訪れたときの様子については詳しく述べられていない。そこで当時の新聞(朝日新聞と読売新聞)を手掛かりに調べてみた。(なお以下で新聞記事から引用するにあたっては、読みやすいよう表記の一部を今日のものに改めた。)

サンガー夫人の伝記の一つ (エレン・チェスラー著、日本評論社発行、2003年)

サンガーは1922年3月、改造社社長 山本実彦の招きで来日する。7月にロンドンで開催される万国産児制限会議に出席する途中、太平洋を渡って日本に立ち寄ったのである。

このとき日本への上陸をめぐって一騒動があった。日本に向かうに先立ち査証(ビザ)の発給を申し込んだものの、日本の領事館から拒否されたのだ。

拒否の理由は、「民族発展は国策の第一義」なのに産児制限の宣伝に来られては堪らないとの意見が内務省内にあったからだと報じられた(注1)

その一方で、「外務省の若手連中は内務省の態度に大反対らしい」という報道もあった。たとえば外務省の重光葵参事官が「私は大反対。個人の渡航の自由を阻止することはどんな野蛮国もやっていない。しかもサンガー夫人は一人の学者として学説を説きに来るだけではないか」という趣旨の発言をしたと報じられた。彼女を招く立場にあった石本恵吉男爵も、上陸禁止なんて「三大国だの五大国だのという面目どころか国際的恥辱といってもいいくらい」だと政府を批判した。

読売新聞も社説で、彼女に日本で講演させ、誤謬があれば指摘して反駁し、公安に害あるならば宣伝を禁止すればいいではないか、「何を苦しんで個人の渡来の自由を事前に阻止し、時代外れの障壁を国境に設くるの要あるか」「そんな事に一々神経を悩まして居ったならば、マルサスの人口論の当否を講壇で説くことすら不可能となる」と政府を批判した(注2)。

サンガー本人もサンフランシスコから日本へと向かう大洋丸の船上で、加藤友三郎(海軍大将、海軍大臣)や埴原正直(外務次官)らを介して日本政府への働きかけを続けた。サンガーは、前年からワシントンで開催されていた軍縮会議が終わって帰国する加藤たちと、たまたま大洋丸で一緒になったのだった。

サンガーはこう主張した。「子供をもった限りはその子供を立派なものに育て上げたいのが人情で親の務めであるのに、自分で育てることができない子供を無闇に生んで親子もろとも貧民窟に引きずり込まれるとは何たる悲惨な事実でしょう。貧弱な子供を沢山作って子供の出生率を高めるより健全な子供を作ることは社会を健全にするばかりでなく、そのほうが却って人口を増やすことになる…。子供や親の健康に従ってその数を調節するのです」。

結局は内務省が折れた。サンガーが横浜港に入ったとき神奈川県警察部長が彼女を尋問し、「産児制限の実行方法を具体的に宣伝せぬとの保証を取った上で上陸許可という段取り」にしたのである。「内務省では省内の若手を始め外務省さては世論と矢継ぎ早に手痛い嘲笑的反対を受け、かつは近く議会でも弁難されそうな形勢なので今さらに慌てたらし」い、査証を拒否すると言えば渡航を思いとどまるだろうと思って「外務省に泣きついてまで実行した計画がスッカリ画餅に帰した訳である」、と新聞は書いた。

米国大使の幣原喜重郎や外務次官の埴原正直からも電報で意見が述べられてきたので、内務省と外務省で協議し、条件つきで上陸を許可することに内定したのだ、とも新聞は報じた(注3)。

大洋丸が横浜港に到着した3月10日、朝日新聞は朝刊に「実は貴族院に睨まれたサ夫人/物議の中にけふ上陸/警保局長真相を語る」という記事を掲載した(注4)。貴族院議員の何人かから政府に対し強い働きかけがあったため、責任者の立場にあった床次竹治郎(内務大臣)がほとほと困って、「上陸はしても講演はしてくれるな」とサンガーを説得したのだという。

警保局長の湯池幸平も、サンガー夫人の上陸を認めるのは「怪しからんと貴族院のある人々から投書が来てる程」だと新聞記者に認め、読売新聞に「遂に泥を吐く」と書かれた。朝日新聞によると、湯池警保局長は次のようにも語ったという。今回の措置は貴族院とサンガー夫人の中庸を執ったもので、夫人は日本観光を兼ねて平和博覧会でも見に行くだろう。産児制限も貧困者の家庭でするぶんには悪くないと思うのだが、現実には上流家庭の夫人が「容貌の美を保ちたいために」産児制限するという弊害が現に欧米で現われており、それが恐ろしいのだ(注5)。

ともあれ、サンガーは10日中に何とか上陸することができた。翌11日の朝刊は「厳しい尋問の後サ夫人やっと上陸/携帯品の一部は没収されて/「鬼婆」でもなさそうな話ぶり」との見出しで次のように報じた。

まず神奈川県警務部外事課長と通訳がサンガーを尋問し、その後ガルシー米国大使館書記官を連れてきて、「夫人に外務省の意嚮を伝え講演についての言質を取り、シドモーア横浜総領事(注6)の保証を得た上、税関において厳重に携帯品の書物及びその他の検査をなした上、上陸を許すと告げた」。

講演についての言質とは「20人位の個人的集会」を除き公衆向けの講演は一切しないというもので、「講演用の器具」も税関で没収した。また横浜総領事シドモーア氏による保証とは、「夫人が旅券査証なくして上陸を許可された者であることを認め、今後夫人に対して採らるる日本官憲の処置が正当なる限り無条件に肯定する」というものであった。

つづく


注1: 内務省令第1号「外国人入国の件」(1918年1月26日施行)第1条で、「帝国の利益に背反する行動を為し又は敵国の利便を図るおそれある者」や「公安を害し又は風俗をみだる虞ある者」などは地方長官が上陸を禁止できるとされていた。
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注2: このあとに、そもそも「査証とは何か」についての外務省や在外領事の理解が誤っている、このことのほうが重大だ、と批判がつづくのだが、ここでは立ち入らない。
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注3: このときの電文(埴原から内田康哉外務大臣および矢田七太郎サンフランシスコ総領事宛)を英訳したものが、ウエブサイト Women and Social Movements in the United States,1600-2000ここに公開されている。
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注4: 警保局とは内務省の内局の一つで、警察行政全般を管轄した。警保局長は全国警察の責任者である。戦後の1947年に、内務省が解体されたのにともない警保局は廃止された。
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注5: サンガー夫人ならびに加藤全権らが横浜に到着した3月10日は「平和記念東京博覧会」の開幕日であり、人々はこの博覧会にも大きな関心を寄せていた。平和記念東京博覧会は、欧州大戦(第一次世界大戦)が終結したことを承けて「世界の平和を記念し併せて帝国産業の発展に資せんとの趣旨」で東京府が主催し上野公園一帯で7月31日まで開催された。
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注6: ジョージ・シドモア(George H. Scidmore; 1854-1922)である。総領事シドモアから神奈川県知事井上考哉に宛てた文書が、ここに公開されている。(他の関連文書も(原文が日本語のものは英訳して)この前後に掲載されている。)
なお、ジョージ・シドモアの妹エリザ(Eliza; 1856-1928)は、新聞記者をへて紀行作家となり、兄のジョージが日本にいた関係もあって1883年ごろからたびたび来日していた。よく知られているように、日本の桜を見たエリザがワシントンのポトマック河畔に桜の名所を作ることをタフト大統領夫人に提案し、それがきっかけとなって1912年に東京市から桜の苗木2000本がワシントンに贈られた。
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