江別饅頭,煉化餅

ミニコミ紙「家庭」に,江別饅頭や煉化餅 がしばしば登場する.たとえばこんな具合である.

…内地へ行って帰ることになると,せめて三越あたりで子供に何か珍しいものと云うことになり,それが自分の子供だけで済まなくなるからますます事が面倒になる.
 ところが道内の旅行となると,根室や,樺太くんだりまで行ってきたのでも,行く者も,残っている者も,そんな点は一行平気で,せいぜいで江別饅頭か煉化餅くらいで済むから雑作はない.何と云っても津軽海峡と云う奴が,樺太航路よりも難航だと云うことになるわけだ.…

「家庭」1巻1号(1926.3.11)p.7

根室や樺太から札幌に帰るときの土産には,江別饅頭か煉化餅を土産に買って帰るのがいいというのだ.根室からにしろ樺太からにしろ当時は函館本線で滝川から南下し江別を経由して札幌に戻ったから,札幌の少し手前の江別駅で買い込むことができた.

江別饅頭は,北海道産の小豆を用いた饅頭で,1885年(明治18年)から製造・販売が始まったという.

ミニコミ紙「家庭」には西田天香の,こんな思い出話も載っている.

江別饅頭を,汽車中のストーヴの煙突にペタペタはって,ひだるい腹を癒やしたことも忘れられぬ思い出である…

「家庭」1巻6号(1926.8.11)p.4

「ひだるい」とは「ひもじい」「腹がへっている」という意味である.煙突の熱で焼いて食べ,空腹を満たしたというのだ.値段もそう高くない,手頃なお菓子だったのだろう.西田は1890年代に数年間,北海道に住んでいた.その頃の思い出話である.(注2)

もう一つの煉化餅は,1901年(明治34年)から作られるようになったという,小豆あんを餅でくるんだお菓子である.歌人の石川啄木が1908年に書いた「雪中行 小樽より釧路まで」という文章の中で,次のように書いている.(注3)

汽笛が鳴つて汽車はまた動き出した.札幌より彼方むこうは自分の未だ嘗て足を入れた事のない所である.白石厚別を過ぎて次は野幌.睡眠不足で何かしら疲労を覚えて居る身は,名物の煉瓦餅を買ふ気にもなれぬ.江別も過ぎた.幌向も過ぎた.…

『啄木全集』第8巻,筑摩書房

啄木は「煉瓦餅」と書いているが,正しくは「煉化餅」である.当時 札幌商工会議所会頭だった久保平太郎が,野幌名産の煉瓦に因んで,「瓦は食べられないが瓦が化けたら食べられるのではないか」というので,こう名づけたのだという.

これら江別饅頭と煉化餅は,今日も江別名物として販売されている.

江別市内で購入した「江別饅頭」(左)と「煉化もち」(2021年9月)

注1: 1923年から45年まで,北海道の稚内と樺太の大泊の間を鉄道省の運航する連絡船(稚泊連絡船)が約8時間で結んでいた.また24年には北日本汽船が稚内と樺太の本斗を結ぶ航路を開設した.これらに先立ち22年には,旭川から宗谷本線が稚内まで延伸されていた.

注2: 西田天香(1872 – 1968)は1905年,京都に一灯園をひらいた宗教家.

注3: 啄木は1907年(明治40年)の9月から小樽日報社で新聞記者として働き始めたものの,社内に争いがあって12月に辞め,翌年1月からは(家族を小樽に残したまま)釧路新聞社の記者となる.1月19日に小樽駅を発って釧路に向かう途中で書いた文章である.