堀義路の後半生

堀義路(1896 – 1972)は,重水の製造に関連して戦前から戦時中にかけ活発に活動した.ところが戦後になると,重水との関係で彼の名を目にすることはなくなる.堀は戦後,どんな活動をしていたのだろうか.

『北大工学部応用化学科の40年』p.3

堀義路は,東京帝国大学工学部応用化学科を1920年7月に卒業したあと,同大学で工学部の講師,臨時窒素研究所(農商務省)の嘱託などを経て,24年12月に北海道帝国大学工学部講師となった.翌年5月からは教授として理学第二講座を担当する.また30年に北海道帝大に理学部が創設されると,翌年から理学部の講師も兼任した.

そして1933年秋から,重水濃縮の実験を始める.その結果を翌年4月に日本数学物理学会の年会(原子物理学部会)で報告してもいる.その報告会場にいた湯川秀樹は日記にこう記している.

今日は雨がふつてさむい.九時過から第一会場で原子物理学部会あり.堀義路君,健夫君,嵯峨根,仁科さん等の話あり.…木村君,今堀君,四手井君等,来ておらる.

『湯川秀樹日記』p.68

健夫君,今堀君,四手井君はそれぞれ堀健夫,今堀克己,四手井綱彦で,みな北海道帝国大学理学部物理学科の教授もしくは助教授であった.四手井は堀義路から重水を提供してもらい,「CH分子スペクトルに於る重水素同素体効果」について実験していた.このころの堀義路が,物理学者たちとも交流を持っていたことがわかる.

ところがその堀は,1941年9月に藤原工業大学創立委員に迎えられ,翌年4月から同大学の教授となって北海道帝大を去る(ただし45年4月まで北海道帝大工学部の講師を兼任した)(注1).

応用化学科主任となった堀は主として「戦時研究」に従事し,水素発生源とするための水素化カルシウムの製造,電気分解によるカルシウムの製造,気球用水素を供給するためのアンモニア分解装置などについて研究した.

そんな彼であったが,44年秋に突然,学部長(海軍造兵中将で東京帝国大学教授,工学博士の谷村豊田郎)に辞表を出し,大学を去る.その経緯について,慶応義塾普通部で堀義路を教えたことのある高橋誠一郎が後年,堀への追悼文の中で次のように述べている(注2).

君は,次第に凄惨苛烈の度を加えている戦局下に,職域報公の一念に燃え,孜々(しし)として,その専門の研究を続け,また忠実に学生指導の任に当っていたという.君は,ますます軍隊化して行く学園の状態に対しても,ただ一言の不平も漏さず,黙々として軍部出身の学部長の統率に服していたとのことである.
ところが,君が学徒隊の査閲に際して,査閲官の前に一部の学生を率いて,分列行進を行うべき旨を学部長から命ぜられたとき,君の学者魂は俄然沸き返ったのである.君は,どうしても,隊形を分列して,査閲官である軍人の前を行進し,規定通りの敬礼を行うことを肯じなかった.この篤学の若い教授が憤然として大学を去ったのは,こうした事情によるのであるという.

『吾人の任務』p.169

終戦後,再び堀を慶応に呼び戻そうとの動きもあったようだが彼は応じなかった(堀は結局,45年10月31日付で,遡って1年間休職とされたようである).

その後の堀は,経済安定本部資源委員会委員,北海道庁総合開発企画本部顧問,産業計画会議専任委員,電力中央研究所理事,工業開発研究所理事長などを歴任する.69年には米国のAPDA社(Atomic Power Development Associates Inc.)およびPRDC(Power Reactor Development Co.)の副社長となった.このように堀は,重水に関する研究からは離れたものの,エネルギーへの関心は一貫して持ち続けた.

ところが1972年10月,突然の飛行機事故で世を去る.堀はAPDAおよびPRDCの社長と面談のため米国バージニア州ホットスプリングを訪れたのだったが,デトロイト・エジソン社がチャーターした小型飛行機が濃霧のため着陸に失敗し,堀のほかエジソン社の幹部2人も含め乗客乗員6名全員が死亡するという事故だった.


注1: 藤原工業大学は,王子製紙株式会社社長の藤原銀次郎が資金を出し,完成後は母校の慶應義塾に寄付するという約束で設立された私立で初めての工業単科大学である.慶應義塾の日吉キャンパス内で1939年に予科を開校した.42年4月から学部の授業が始まり第1期の学部生が卒業した44年に慶應義塾大学工学部となった.

注2: 高橋誠一郎は経済学者.1914年に母校慶応義塾の教授となり,戦後は塾長代理や総長を務める.また第1次吉田内閣では文相として教育基本法の制定に携わった.

注3: 1966年に米国のAPDAから日本側に,エンリコ・フェルミ炉を利用した研究開発計画に参加しないかと提案があり,日本は民間ベースで参加することにした.そして電力中央研究所がAPDAとの間でこの計画に関する契約を締結した.堀が副社長に就任した背景にはこのことがある.

参考文献
応用化学科の40年編集委員会(編) 1980:『北大工学部応用化学科の40年』応用化学科創立40年記念事業会.
慶應義塾(編) 1962:『慶應義塾百年史 別巻(大学編)』慶應義塾.
堀義路氏追悼記念出版編集委員会 1973:『吾人の任務』工業開発研究所.
湯川秀樹 2007:『湯川秀樹日記: 昭和九年 中間子論への道』(小沼通二編),朝日新聞社.