千谷利三,堀内壽郎,鈴木桃太郎,中谷宇吉郎

千谷利三と鈴木桃太郎

千谷利三(1901-73)は,1932年初頭に重水素の発見が報じられるたあと,日本においていち早くその研究を開始し,国内で重水素研究の第一人者となった人物である.

千谷は東京に生まれ,1919年に旧制第一高等学校(理科乙類)に入学する.高校のクラスでは,成績が「1番は主として千谷利三という秀才であった」という.かく言うのは,高校で同級生だった鈴木桃太郎である.

その後,千谷と鈴木は22年にそろって東京帝国大学理学部の化学科に入学し,大学3年の時には二人とも片山正夫の研究室に所属して卒業研究に取り組む.その当時の千谷について鈴木は次のように回想している.

「千谷は非常に手が器用で,自分[鈴木]のやる事は見ていられない」らしく,奪い取って自分がやりたかったのか「手がブルブル震えているのを見た事がある」.

そして鈴木の最初の論文に掲げたグラフも,実は千谷が書いてくれたのだという(最初の論文とは鈴木(1929)であろう).

千谷は大学を卒業すると,理化学研究所の研究生,東京帝国大学理学部の助手,(財)塩見理化学研究所(のちの大阪帝国大学理学部の礎となる)の研究員を経て,1931年にドイツ,フランクフルト大学のボンヘファー(K.F.Bonhoeffer)のもとに留学する.そして帰国後の33年4月に大阪帝国大学理学部の助教授,34年9月に教授となり,重水素に関連する化学の研究に邁進する.

一方の鈴木桃太郎は,大学を卒業すると武蔵高等学校教授,府立高等学校(戦後は東京都立大学教養部の基盤となる)教授となる.戦後は東京都立大学の新設に尽力して初代理学部長も務める(関連記事).

しかし53年3月には保安庁の技術研究所へ所長として転出することになる.そして自らの後任(物理化学講座)に千谷利三を大阪大学から招く(註1).

堀内壽郎と千谷利三

東京帝国大学理学部の化学科で千谷利三や鈴木桃太郎と同級になった堀内壽郎(1901-79)も,重水素に着目した化学者である.

堀内は札幌に生まれ,東京府立第一中学校,仙台の第二高等学校を経て,1922年に東京帝国大学理学部に入学した.そして彼も,片山正夫の門下で学んで25年3月に卒業する.卒業後は大学院に進学し,理学部の助手,理化学研究所の研究生,姫路高等学校教授などを経て,32年春からドイツに私費で留学する.

ゲッティンゲン大学のオイケン(A. Eucken)のもとに留学したのだが,彼の指導に満足できなかった堀内は,ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所にいるポランニー(M. Polanyi)のもとに移りたいと思うようになり,日本で発表したドイツ語論文を携えて彼を訪れ,研究室に入れて欲しいと伝えた.するとポランニーは二つ返事で了承してくれた.そのときの様子を堀内は,日本にいる妻に手紙で次のように伝えている.

帰るときにMein Kollegeて肩たゝかれてロジ[=壽郎]宇頂天になってかへった.…前に千谷が付かうとして追拂はれたのにロジが付きたいって云ったら二つ返事で承知して而も大喜ひで承知して呉れたんだもの.…呉君が千谷がひどく口惜しがるだらうって云ってた(註2).

どうやら堀内は,同級の千谷にライバル心を抱いていたようである.千谷が塩見理化学研究所に職を得ているのに対し,堀内は在外研究を始めたばかりで帰国後の目途もないのだから無理もない.

堀内はポランニーのもとで,重水素を利用して水素電極反応の機作について探求を始める.1935年に帰国し北海道帝国大学理学部に着任してからもそれを発展させるとともに,43年に同大学に触媒研究所が設立されると第一部門(理論化学)の教授となり,戦後には所長も務める.定年退職後には学長にも選出される.

留学中の堀内が千谷にライバル心を抱いていたとはいえ,二人は生涯を通して「無二の親友」であった.千谷利三の甥 千谷晃一(生物化学の研究者)が堀内の三女と結婚しているが,これは千谷利三から晃一へ「強い勧め」があってのことだったという.

鈴木桃太郎と中谷宇吉郎

鈴木桃太郎らが東京帝国大学理学部の学生だったとき,同じ学年の物理学科に中谷宇吉郎がいた.そして鈴木は中谷とともに,理学部会(学友会理学部会)の学生委員として活動し,『理学部会誌』の編集・発行を担い,原稿も執筆した.鈴木は同誌に「偶感三題」「ロシアの旗・他一篇」と題した文章を寄せている.

また鈴木や中谷は,教授とともに地方に出かけ自分たちも高校生を相手に科学講演を行なうという企画を立てた.そして1924年の夏休みに第1回の地方講演旅行を片山正夫教授とともに行なっている.

これらは,1920年代の帝国大学理学部生たちの濃密な人間関係の一端ををうかがわせてくれるエピソードではなかろうか.


註1: 保安隊と警備隊を総括する機関として保安庁が1952年に設置され,装備品などについて技術的研究を行なうために保安庁技術研究所も同年に設けられた.54年に保安庁が防衛庁(保安隊が自衛隊)となったのにともない防衛庁技術研究所となる.なお鈴木は,38年10月に陸軍登戸研究所嘱託,43年11月に第九陸軍技術研究所嘱託となり,戦前に軍との関係をもっていた.

註2: 呉とは呉祐吉のことで,彼は当時カイザー・ヴィルヘルム化学研究所にいた.のち大阪帝国大学理学部化学科(第6講座)に着任する.

参考文献
杉山滋郎 2020-1:「堀内壽郎の欧州留学生活―重水素・量子力学・ナチス台頭」『窮理』15号,39-45; 16号,40-6; 17号,38-47; 18号,41-7.
杉山滋郎 2015:『中谷宇吉郎 役に立つ研究をせよ』ミネルヴァ書房.
鈴木桃太郎 1929:「水-醋酸メチルの二成分系の蒸気圧に就て」『日本化学会誌』50巻3号,130-6.
鈴木桃太郎 1977:「76年を顧みて」『われらの鈴木桃太郎先生追悼集』鈴木桃太郎先生追悼集編集委員会(1993年),30-57.
千谷晃一 2016:「私の蛋白質科学 大学院,蛋白研からアメリカでの研究まで」『日本蛋白質科学会ニュースレター』16(1),136-43.
堀内壽郎 「堀内壽郎関係資料」中の書簡(E-61),北海道大学大学文書館蔵.