1941年から活動を開始した野口研究所が,延岡支所で「重水の製造」を研究テーマとしたのは久保田正雄の提案による,そしてその久保田の提案の背景には,大阪帝国大学理学部の千谷利三(化学科教授)からの依頼があった――『重水素とトリチウムの社会史』第2章第6節でこのように述べた.
しかし,のちに野口研究所の常務理事となる田代三郎が,野口研究所が「重水の製造」を研究テーマとする経緯について,いささかニュアンスの異なる回想を残している.野口研究所延岡支所での研究テーマ(全部で4つ)は,久保田からの提案と自らの提案とを合わせて設定したものであり,そのうち「重水の製造」は自分が提案したものだというのだ.
自分は,朝鮮窒素株式会社興南工場の研究部門にいたころから,何の役に立つのかわからないながらも重水の製造に関心を持っていた.ノルウェーのノシュク・ヒドロ社が,興南工場と同様に豊富な水力発電を利用して大規模に水の電解を行ない,電解槽中に濃縮された重水を採っているという記事を雑誌で見ていたし,興南工場にマグネシウム製造の指導に来ていたF.ハンスギルグ(Fritz Hansgirg)からも重水の話を聞いていた.そこで野口研究所興南支所での研究テーマを常務会議に提案するにあたって,海水からの臭素の抽出回収などとともに「重水の抽出」も盛り込んだ.(以上,要旨)
田代三郎「私本野口研究所物語 その一 幻の横浜研究所」『日本窒素史への証言 第27集』1986年,5-111.
だが興南支所では重水の製造が研究テーマに採用されなかった,それでも延岡支所での研究テーマとしてあらためて提案したところ採用された,田代はこう言うのだ.
田代は別の回想で,こうも述べている.
重水もハンスギルグが持ち込んできた.….ハンスギルグの話の当時は,まだ原爆はおろかその用途も考えられず,一つの学問的興味のもので,ドイツで1cc10円といっていた.….興南でやってはというハンスギルグの話だったが,遊びはやめた方がよいとやめたが,その後京大[理化学研究所か]の仁科さんに相談したところ,重水はぜひ要るというので,延岡の久保田正雄君にたのんで,延岡の水素工場の一系列つぶしてやってもらった.
田代三郎「興南研究部のこと」『日本窒素史への証言 第3集』1978年、5-38.
これら田代の回想と久保田の回想との間には,細部に食い違いがある.だがどちらの回想もかなり後年になってからのものであることを考慮すれば,次のように理解するのが適切であろう.両者がそれぞれに異なるルートで重水に関心を抱くようになり,それらが重なって野口研究所延岡支所での重水製造研究が始まった,と.
追記(2021.08.02): ハンスギルグについてはこの記事を参照されたい。