東京都立大学は1949年4月に、都立の高等学校や高等専門学校など6校を統合し、人文学部・理学部・工学部からなる公立の新制総合大学として誕生した。その設立準備の過程で、原子核物理学者の仁科芳雄を初代総長に迎え、なおかつ理化学研究所を都立大学の大学院に位置づける構想があったという。
1981年に公刊された『都立大学三十年史』に次のような記述がある。
…初代総長の正式決定には、若干の経緯があった。
東京都立大学三十年史編纂委員会『東京都立大学三十年史』東京都立大学、 1981年、p.61。なお文章中の「理科学研究所」は、正しくは「理化学研究所」である。
当初その最有力候補者とみなされ交渉の対象になったのは、すぐれた原子物理学者で、当時理科学研究所所長であった仁科芳雄である。前述したとおり、仁科はすでに1948(昭和23)年6月に組織された東京都立大学設置調査委員会委員のなかで、「学識経験者」の一人に参加したのみならず、さらにその後、大学設置の段階で理学部の人事「銓衡」委員(表1-15参照)をつとめるなど、本学の設立に密接な関係をもった。その登場の契機は必ずしもあきらかではないが、鈴木桃太郎都立女専校長のつよい推薦を背景に、「仁科総長」の実現とあわせて、将来、理科学研究所を新設の都立大学の大学院施設として、その一部に統合しようという構想もあったようである。然しこの案は当時の連合軍による日本占領のもとで、連合軍総司令部(GHQ)の反対により挫折したといわれている。
「将来、理科学研究所を新設の都立大学の大学院施設として、その一部に統合しようという構想もあったようである」というだけで、典拠も何も示されていない。だが「つよい推薦」をしたという鈴木桃太郎の証言が典拠(の一つ)ではないかと思われる。というのも、鈴木桃太郎が1977年に発表した「76年を顧みて」という文章の中で、次のように述べているからである。
総長としては理化学研究所長の仁科博士に白羽の矢をたて、同時に理研を都立大学の大学院にしようとする計画で大いに骨を折ったが、最後に占領軍側がどうしても首をたてに振らないので遂に失敗に帰した。そこに元の東大教授の柴田雄次博士が現われたので、これを総長に迎える事にした。
鈴木桃太郎「76年を顧みて」(『われらの鈴木桃太郎先生追悼集』鈴木桃太郎先生追悼集編集委員会、1993年)pp.30-57
仁科は1946年に(財)理化学研究所の第4代所長に就いていたが、47年に「過度経済力集中排除」(財閥解体司令)により理研産業団が解体され、理化学研究所も解散して48年に株式会社科学研究所となり、仁科が初代社長となる。理化学研究所の側ではこうした改編作業を、GHQとも連絡をとりつつ進めていたであろうから、GHQは首を縦に振らなかったのであろう。
それにしても、鈴木桃太郎・理化学研究所・GHQの間での交渉を示す何らかの文書資料など、どこかに残っていないものだろうか。
なお鈴木桃太郎は、1901年、台湾の板橋に生まれ、東京帝国大学理学部化学科を卒業したあと、武蔵高等学校教授、東京都立女子専門学校長、防衛庁技術研究所長(初代)、防衛大学校副校長兼教授、上智大学理工学部教授(同学部創設に携わる)などを歴任した。1992年、91歳で亡くなった。
追記(2021年8月31日)
鈴木桃太郎については、この記事も参照されたい。