中谷宇吉郎の下宿生活

数日前の北海道新聞に、『「雪の化石」時代超え輝く/札幌の女性、北大に寄贈/「雪博士」故中谷教授50年代製作』と題した、小華和靖(こはなわ やすし)記者による記事(写真3点つき)が掲載された(注1)。概略、次のような内容である。

中谷宇吉郎は米国から帰国した1954年ごろに、札幌市内の小林國子さん宅の筋向かいに下宿するようになった。小林さんは華道を教えており、宇吉郎の下宿先から頼まれて博士の部屋に時折花を生けに行くようになった。そしてある日、お礼にと「雪の化石」(雪の結晶レプリカ)や色紙などを贈られた。小林さんは、それら(雪の化石、色紙2枚、書1点)を昨年、「後世に残したい」として北海道大学に寄贈した。

この記事に出てくる中谷の「下宿」について、いくつか関連することがらを書きとめておきたい。

中谷は1951年秋にSIPRE(雪氷永久凍土研究所)から招聘され、52年6月に米国シカゴ郊外へ一家揃って住まいを移した。そして1954年8月末に帰国する。中谷一家は1948年に東京原宿に住居を建ててそこに移り住み、宇吉郎は札幌に「単身赴任」していたから、54年夏に帰国したとき、札幌に住む家はなかった(注2)。

そのとき「下宿」先を探してくれたのは、北海道大学理学部の同僚 古市二郎だった。

私[古市二郎]は昭和29年[1954年]の夏に、米国から札幌に帰ってこられてからの先生の宿所のお世話をしなくてはならない仕儀になったのであるが、幸に北海道の名家である伊達家におひきうけしていただいた(注3)。

小華和氏によると、古市の妻と伊達夫人とが懇意だった関係で伊達家にこの話があり、伊達家では二男が使っていた部屋を中谷の下宿用に提供したという。

伊達家、小林家、古市家の位置関係(注12)

古市が言うには、中谷は「何でも喜ばれる先生ではあったが、この宿所は、ことのほか気に入られたらしく、それからお亡くなりになるまでずっと居を移されなかった(注4)」。

そして小華和氏によると、茶道を教えていた伊達夫人と華道を教えていた小林國子さんとの間にも親交があり、花を生けてほしいという宇吉郎の希望が伊達夫人を介して小林さんに伝えられ、小林さんが宇吉郎の部屋に花を生けに行くようになった、というわけである。

さて古市二郎(1909-1967)は、中谷が教授を務めた北海道帝国大学理学部物理学科の卒業生(二期生)である。1931年に第一高等学校を卒業し、中谷がいるからというので北大理学部物理学科に入学する。しかし3年生になり専攻を決めるときには「止むを得ない事情から」分光学を専攻する。担当教授は中村儀三郎であった。しかしそれでも中谷の研究室には自由に出入りさせてもらい、スキーも一緒に楽しむなど、親しく交流した(注5)。

ところが中村儀三郎が1934年3月(古市の卒業直前)に病没し、旅順工科大学から堀健夫が1935年に後任として着任した。物理学科を卒業した古市は堀健夫の助手となり、ついで助教授となる。そして戦後の1947年には、物理学科応用物理学講座の教授となった。

古市二郎の妻ゆきえ(旧姓 横田)もまた、北海道帝国大学理学部物理学科の卒業生である。横田は日本女子大学家政学部第二類を1935年3月に卒業し、北大理学部物理学科の聴講生を経て、翌36年4月に物理学科に入学する。3年目(1939年4月)から分光学を専攻し、堀健夫教授に師事した。そして助教授時代の古市二郎と結婚する(注6)。

結婚後の古市ゆきえは、札幌市内にいた同窓生に「一緒に高校生用の教科書を作りましょう」と勧誘したり、札幌市内の北星学園女子短期大学(1953~66年)で、あるいは藤女子短期大学で(1966~69年、生活科学担当)非常勤講師を務めたりした(注7)。

ゆきえは後年、大学3年生の頃に「中谷先生の様々な形の雪の結晶を作る実験を見せて頂いたこと」が印象的だった(注8)と学生時代を回想しているから、中谷の影響も強く受けていたと思われる。

古市夫妻の子息によると、ゆきえは「日本女子大で家政科に在籍したせいか、抽象的ではなく日常的におこる具体的な物理現象を題材にし、読む人(女子学生)が親近感を持てる物理の教科書を作りたいとは申しておりました(注9)」とのことであるが、科学の題材をわかりやすく語る中谷宇吉郎からの感化も重なっているのではなかろうか。

他方 宇吉郎のほうでも、二郎を「二郎ちゃん、二郎ちゃん」と呼んで可愛がり、「6月の夕暮など大通りから山鼻へと初夏を満喫し乍ら共に歩いて帰ったこと」も度々あったという。古市家は、宇吉郎が下宿する伊達家から「一、二丁の近くに在った」のである。そして古市二郎は「家内ともども先生と時を共にする機会に多く恵まれ、直接に多大の啓発を受ける幸せを得」ることになる(注10)。

宇吉郎は古市家をしばしば訪れ、「夕食を共にすることも多かった。そんな折々に、一枚か二枚ずつ[古市家にある品々を写生し、画帳に]描き入れて行った」という。その画帳は、古市夫人の名前「ゆりえ」に因んで「百花合流帖」と題された(注11)。そこに描かれた絵は『中谷宇吉郎画集』に収録されている。

なお古市二郎は、教養部長や理学部長を歴任したあと、1966年9月に第8代学長に選出される。学長選挙では、堀内寿郎名誉教授との間で決選投票にまでもつれ込み、1票差で当選したのだった。ところが翌67年2月22日、胃がんの肝臓転移により没してしまう。後任の学長には堀内寿郎が就いた。


注1)北海道新聞夕刊、2019年5月23日、p.1.
注2)中谷一家は1938年に南4条西16丁目に自宅を新築し、敗戦後もしばらくそこに住んでいた。しかしその家も、1948年から52年ごろまでのどこかの時点で、何らかの形で処分していたものと思われる。
注3)古市二郎「よき時代の先生と学生―中谷先生のある思い出―」『北大季刊』第23号、pp.119-126. 引用はp.124より。
注4)古市二郎、前掲、p.124.
注5)古市二郎、前掲、pp.119-124.
注6)山本美穂子「北海道帝国大学理学部へ進学した日本女子大学校卒業生たち」『北海道大学大学文書館年報』第7号(2012年)、pp.42-58.
注7)山本美穂子、前掲。『北星学園八十年誌稿』1967年、付録p.43.
注8)古市ゆりえ「皆既日食」『北大理学部五十年史』1980年、pp.300-1、引用はp.301より。
注9)山本美穂子、前掲、引用はpp.47-8より。
注10)古市二郎、前掲。古市一家と宇吉郎との親交については、次の追悼文も(伝聞にもとづくものではあるが)言及している。金子元三「古市二郎先生を悼む」『日本物理学会誌』第22巻第7号、pp.456-7、三井利夫「古市二郎先生のおもいで」前掲誌、pp.457-8.
注11)山下一郎「中谷宇吉郎の絵画」(『中谷宇吉郎画集』中央公論美術出版、1979年)所収。引用はpp.48-49より。
注12)西尾新吾『札幌市卓上案内 8 山鼻版』北海道都市案内刊行会、1950年より(一部加工)。