ひょんなことから、中谷宇吉郎の書いた「この頃の札幌」という一文を発見した。大森一彦(編)『中谷宇吉郎参考文献目録』にも収録されていない文章かも知れないと思い、念のため、ここに書きとめておく。
北海道放送(HBC)が1957年に発行した『北海道放送開局五周年:HBCテレビ開局記念』という冊子の中ほどに、札幌市外の航空写真(カラー)がページ見開きで掲載されている。その地図の左上に半透明紙が上端だけを糊付けして添付され、そこに「この頃の札幌」と題した中谷の文章が載っているのだ。以下が、その全文である。
札幌は美しい街である。というよりも、昔から美しい街であった。しかし、その美しさは、金沢や奈良のもつ美しさとはちがう。碁盤の目に切った通りに、街路樹が整然と並び、緑の葉蔭に赤いトタン屋根が見える美しさであった。西洋の美しさなのである。
その札幌は、この数年来、全国一の建築ブームに賑い、新しいビルディングがつぎつぎと建っている。こういう「西洋化」は、全国を通じて行われているので、時代の波には抗し得ない。
旧い日本の美をもつ街には、こういう変化は、差換であるが、札幌にとっては、生長である。近いうちに、札幌は日本でいちばん美しい街になるかもしれない。
中谷は、北海道帝国大学の助教授に迎えられ1930年の春に初めて札幌にやって来たとき、早くも「赤くペンキを塗ったトタン張りの屋根」が並ぶ街の風景に驚いている。このとき以来、木々の「緑」と屋根の「赤」は中谷にとって「札幌の色」だったのだろう。
それはともかく、この冊子『北海道放送開局五周年』に中谷が登場したのは、これ以前に同局と縁があったからと思われる。北海道放送が札幌でラジオの本放送を開始したのは1952年3月10日である。それから3ヶ月後の6月12日、中谷は同局のラジオ番組に出演した、しかも当時としてはとてもユニークな形で。
中谷は1952年6月はじめ、アメリカのシカゴ近郊にある雪氷永久凍土研究所で研究をするべく、日本を発った。家族も半月ほど後に、船で彼の後を追う。中谷一家のこのアメリカ行きは、「永住するつもりではないか」などと新聞や週刊誌で大きな話題になった。HBCでは、シカゴにいるその中谷と、同社の社長 阿部謙夫とが国際電話で対談し、その録音を放送したのである。国際電話での対談を収録して放送するというのは、HBCとして初めての試みだったという(注1)。
HBCの開局5周年を記念する冊子に中谷が登場するのは、HBCとの間にこうした「つきあい」があったからであろう。
なお中谷は、その後もHBCとの関わりをもった。HBCはラジオ局を道内各地に開設して放送エリアを拡大していくとともにテレビ放送も開始する。そして1959年1月には「北海道放送ペンクラブ」を設立した。北海道在住の「放送文芸(劇作・随筆・物語・ラジオ小説・詩歌・児童文芸等)に精通する個人」に会員となってもらい、「番組の全部を[本州の他局など]外部に頼る」ことなく編成できるようにしようとしたのである(注2)。中谷はそのペンクラブの顧問に迎えられている(注3)。
蛇足
1.中谷にとって、初めて見た札幌の色は「赤」だった。しかし筆者にとっては「白」だった。中谷から60年ほど後、本州で生まれ育った筆者が、6月ごろに藻岩山の山頂から札幌の街を見渡したときの印象である。しばし考えて気づいた、家々が瓦屋根でないのだ。かといって、中谷が見たときのように、トタン屋根でもなかった。無落雪建築とかで平らな屋根も多く、家々の「頭」が全体的に外壁と大して違わない色なのだった。
2.中谷は、北海道放送テレビにも、本放送開始(1957年4月1日)から間もない時期に出演している。1959年12月15日、全国ネットワークで放送されたTV番組「私は知りたい」シリーズ(トヨタ自動車提供)の第2回目「雪と氷の秘密」に、低温科学研究所所長の堀健夫と共に出演したのである(注4)。
注1) 『北海道放送開局五周年』所収の年表「HBC5ヵ年のあゆみ」
注2) 『放送ペン』第1号(1959年4月)所収の「北海道放送ペンクラブ規約」および(北海道放送社長 阿部謙夫)「北海道放送ペングラブ発会に当って」より
注3) 顧問には中谷のほかに、北海道知事や同教育長、北海道新聞社長、HBC社長、歌人の小田観蛍、道内3大学(北海道大学、北海道学芸大学、小樽商科大学)の学長、栃内吉彦(北大名誉教授、もと農学部)が迎えられている。ペンクラブの会長や理事長はHBCの関係者(編成局長や営業局次長)である。
注4) 北海道放送社史編集委員会(編)『北海道放送十年』北海道放送放送業務室、1963年。