政府から疎んじられた日本学術会議

『「軍事研究」の戦後史』の第5章に引用した新聞社説に、「率直にものを言う学術会議が政府から疎んじられたのは間違いない」というくだりがある(注1)。この一文について、若干の追記をしておきたい。

長年、日本学術会議の会員であった福島要一が、次のように記している(注2)。


学術会議と日本政府との関係を決定的に悪化させた契機が、1964年4月23日の第39回総会における「原子力潜水艦の日本港湾寄港について」の声明であった、といわれている。

この声明をめぐって日本学術会議と政府の間で何があったのだろうか。


1963年1月、アメリカ政府から日本政府に対し、原子力潜水艦の日本への寄港を認めて欲しいとの申し入れがあった。核装備をしたポラリス潜水艦ではなく、原子力を単に動力として使用し核装備を持たないノーチラス型潜水艦であり、寄港の目的は乗務員の休養と水などの補給だとされた(注3)。

このことが報道されると、国民の間に反対意見が巻き起こった。放射能による海洋汚染や事故が起きたときの危険性への危惧が噴出するほか、核兵器の持ち込みに途を開くことになり日本周辺の軍事バランスを変えることになるのではないかと安全保障面での危惧も指摘された。キューバ危機(1962年10月~11月)があったばかりで、東西の緊張が高まっていた時期でもあった。実際、アメリカは「西側陣営はみんな米国といっしょについてきてほしい、といった態度」で日本に様々な要求を出してきていた(注4)。一方ソ連のほうも、日本が米国原子力潜水艦の寄港を認めるなら「ソ連は極東で防衛措置を実行するうえで、…これらの軍事的準備をすべて考慮する必要に迫られる」という抗議の覚書を、駐日大使が大平外務大臣に手渡した(注5)。

こうした事態をうけ、日本学術会議は2月の運営審議会で、政府に次のように「勧告」することを決め、3月11日付で朝永振一郎会長から池田勇人首相に送付した。「原子力潜水艦の日本港湾寄港問題について(勧告)」である(注6)。

 …目下アメリカ政府が、日本政府に申し入れていると伝えられる原子力潜水艦の日本港湾入港は、一時的な原子炉設置と同様に考えられるべきであつて、日本国民に対する安全保障の観点から、政府があらかじめ充分の措置をとられることが必要であると考える。

 政府機関として責任ある原子力委員会が、この問題を重視する態度を明らかにしているが、さらに同委員会において、事故ならびに平常時の国民に対する、特に周辺住民に対する、潜在的危険性にかんがみ、科学的見地に立つて公式に安全性の検討と確認を行ない、かつ、その結果を国民に明らかにするよう措置されたい。

しかしその後、政府がこの勧告に対し具体的に反応することはなかった。日本政府はアメリカ政府との間で質問書をやりとりしたが、その内容が発表されることはなかったし、国内の原子力施設の安全性を検討するために設置されていた原子力安全審査会に今回の件が付託されることもなく、同委員会は「まったくつんぼさじきに」置かれた(注7)。

そのため翌月(4月)に開催された日本学術会議の第39回総会に、「原子力潜水艦の日本港湾寄港について」と題する声明(案)が提案される。次のような内容であった。

…われわれは、…[すでに前年の勧告で政府に対し]わが国の責任ある機関が自主的にその安全性を審査し、その結論を国民のまえに明らかにするよう勧告した。
 この条件が満たされていない現状では、日本国民の安全がおびやかされるばかりでなく、三原則の一角がくずれわが国の原子力研究の健全な発展が阻害されることになるであろう。われわれは、原子力平和利用の精神を貫く観点から、原子力潜水艦の日本寄港はのぞましくないと考える。

総会では、この提案の最後の段落をめぐって、さまざまな意見が噴出した。安全性を審査せよと言うけれど、現実に可能なのか、もし不可能ならそれを政府に要求しても仕方がないではないか。いや、たとえ安全であっても原子力潜水艦の寄港を認めるべきでない、などなど。延々、2時間半近くも議論が続く。最終的には、「学術会議の声明として出しますのには、…やはり科学的な根拠の上に立ったことに限るというのが一番妥当である」したがって「安全性に焦点をしぼる」のがよいという意見が支持を集め、最後の段落を次のような表現に改めた修正案が「絶対多数で」可決された(注8)。

 この勧告にのべた条件がいまだ満されていない現状では日本国民の安全がおびやかされるおそれがあるので、われわれは、原子力潜水艦の日本寄港はのぞましくないと考える(注9)。

ところがである。「実はこの声明をめぐっての討論が[学術会議の総会で]行われていたその時点で、その裏で異例のことが起っていたのである」と福島要一は明かす。学術会議の事務局長が総理府の総務長官に呼びつけられて「この提案の上程をやめさせろ、と指示された」というのである。福島はさらに、「そんなことが局長の権限でできるはずもなく、恐らく、[学術会議]会長にはそのことは伝わっていたのだろうが、朝永会長は全くそしらぬ顔で、会員に自由な討論をさせていたと思われる」とも述べている(注10)。

この出来事が示すように、当時は「こうした論議をすること自体が政府にとって極めて腹立たしいことであった」のであり、「政府と学術会議の意見が、この問題を通じて相容れないものだとの考え方を政府にもたせた、といわれている」、というわけである(注11)(注11a)。


注1) 杉山滋郎『「軍事研究」の戦後史』、ミネルヴァ書房、2017年、p.213.
注2) 福島要一『「学者の森」の四十年(下)― 日本学術会議とともに』日本評論社、1986年、p.84.
注3) 朝日新聞、1963年1月24日。
注4) 「米、歯に衣きせず注文/西側としての行動迫る」と題した、朝日新聞1963年1月27日の松山特派員(ワシントン駐在)による記事のなかの表現。
注5) 朝日新聞夕刊、1963年2月7日。
注6) http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/03/06-03-k.pdf. ここに全文が掲載されている。
注7) 以下に述べる声明「原子力潜水艦の日本港湾寄港について」の提案者 坂田昌一の、同声明の提案理由説明のなかでの発言。福島要一、前掲書、pp.94-95 and p.99.
注8) 福島要一、前掲書、pp.98-104.
注9) 採択された最終的な声明の全文は、http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/03/06-05-s.pdf に掲載されている。
注10)福島要一、前掲書、pp.105-106. なお実際には、総務長官のもとに、事務局長でなく次長が行ったという。
注11) 福島要一、同上。
注11a) 声明「原子力潜水艦の日本港湾寄港について」の起草委員会委員だった永積安明(第一部会員)は、次の総会(第40回総会)が終わったあとに、こう記している。「潜水艦問題が世論の焦点となった前総会の直後、いわゆる「学術会議の越権行為」なるものをめぐって、政府当局と学術会議会長との公式会談があり、…形式的はともかく、少なくとも心理的また実質的には政府の圧力が、40総会を一貫して底流してやまなかったということになる。政府・与党による学術会議攻撃は、まさに効を奏したというべきである。」永積安明「日本学術会議40回総会報告―科学者と政治と―」『日本文学』第13巻第1号、1964年、p.42.<2017年1月11日追記>