三村剛昻の葛藤、被爆した物理学者として

物理学者の三村剛昻(みむら よしたか)は、戦後の1952年に原子力の研究を始めようとする動きが日本の学術界に出てきたとき、広島で被爆したという自らの体験もあって、原爆の開発につながりかねないとして強く反対した。しかしその三村も、前年の日本学術会議総会では、『「軍事研究」の戦後史』の第2章に記したように、「戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない」という姿勢を声明で示すことに対し、反対意見を述べていた。

これら二つの対応は明らかに方向性が違う。この謎を解くには、三村の「思い」の変遷をたどる必要がある。


1952年4月、日米講和条約が発効するとともに、原子力研究の禁止も解除された。それに伴い同年の10月、「学者の国会」とも言われた日本学術会議の総会に、一つの議案が提出された。原子力の研究開発を今後どうするか検討するための委員会の設置について翌年4月の総会で議論する、という趣旨の提案である。提案者の名前を採って、「茅・伏見提案」とのちに呼ばれるようになったものである。

この提案には、検討するための委員会の設置を「政府に対して働きかける」というニュアンスが含まれていたこともあって、反対意見が噴出した。なかでも、広島で被爆した物理学者の三村剛昻が強く反対したことがよく知られている(注1)。『日本学術会議二十五年史』もその時のようすを次のように記している(注2)。

…この問題の討議で、総会出席者のすべてを強く動かしたのは、三村剛昻会員の発言だった。(中略)

 三村会員は長時間にわたって、被爆者として、原子爆弾による惨害について述べた。その事実については、現在では多くのことが知られているけれども、1952(昭27)年の段階では、同会員の述べた事実は、多くの会員にとって、はじめて認識を新たにする面が大きく(注3)、その報告には満場の会員が強い感銘を受けた。…

日本学術会議総会(1952年10月)での三村の反対意見には、大きな柱が二つあった(注4)。

一つは、委員会の設置を「政府に対して働きかける」という発想への批判である。この種の問題をひとたび政治家の手に渡すと、研究のための予算が急増し、原子爆弾の開発へと至って「われわれ25萬が一ぺんに殺される」ということになる、と力説した。

総会が開催されたその日の新聞朝刊に、アインシュタインによる「日本国民への私の釈明」が掲載されたことも、この発言を後押しした。その「釈明」でアインシュタインは、こう述べていたのである。

原子爆弾の生産にあたって、私が関係したのは次のただ一点だけだ。それは私が原子爆弾製造の可能性を調べるための大規模な研究を行うことが必要だと強調した手紙をルーズヴェルト大統領に送ったということである。…(注5)

三村はこの発言を引き合いに出して、はじめは「可能性を検討するだけ」と言っていても、政治家の手にかかると何が起きるかわからない、だから日本における原子力研究のあり方について検討する委員会の設置を「政府に対して働きかける」などとんでもない、と主張したのである。

三村の反対意見にあったもう一つの柱は、「ソ米のテンションが解けるまで、いな世界中がこぞって平和的な目的に[原子力を]使う、こういうようなことがはっきり定まらぬうちは[、]日本は[原子力研究を]やってはいかぬ」という主張である。

三村は数年後に、こうも述べている。

「原子力の平和的利用」が盛んになって地上に楽園ができる態勢になっても原水爆の製造、所有、使用の禁止に成功しなければ、地上の楽園は噴火山上の舞踏と同じで、いつ二十世紀のネロ達の気まぐれのために、人類の最大不幸が訪れるか判らぬ(注6)。

そして後には、科学者京都会議(1962年発足)に参加し、核兵器の廃絶に向けた科学者の運動に積極的に参加する。第2回の科学者京都会議では、自らが所長を務める広島大学理論物理学研究所(広島県竹原市)を会場とし、議長も務めた。

しかし三村が、米ソの緊張が解けるまで日本は原子力研究に乗り出すべきでないという考えに行き着くまでには、強烈な葛藤があったものと思われる。

三村は家族(妻と娘)ともども広島で被爆し、惨状を目の当たりにした。彼自身も、頭部に裂傷(出血多量)を負い、背骨を強打して(そのため2ヶ月間身体がまがらず)10日間寝たきりとなり、その後は田舎で2ヶ月間寝て静養し、1年ほど経ってようやくほぼ回復し頭部の傷も治ったのであった(注7)。

それだけに、被爆して病床にいたとき「考えたことは、どうしてアメリカにこのかたきを討ってやろうか」ということだったという(注8)。

1951年10月の日本学術会議第11回総会では、こんな発言もしている。

私は森戸[辰男]会員のいう世界平和ということは希求しておらぬ。よそはどうでもよい、どうしたら日本が平和であるか。私は廣島であの松茸の中で洗礼を受けたから思うのでありまして、一体どうしてわれわれは平和を守るか。……私は二つに分れている世界で、早く両巨頭が戦つて両方が、原爆でもつて一億も死ねば[つまり米ソという国が消滅すれば]かならず平和がくるだろうと思つている。……国がどうしたら平和になるか、ただ夢を追うようなことでは、とてもとても平和なんて来はしない(注9)。

これは、総会に提案された「講和条約調印に際しての声明」をめぐる議論のなかでの三村の発言である。

この「声明」について、簡単に説明しよう。日本学術会議は1950年4月の第6回総会で、「戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わない」という趣旨の声明を全会一致で決議していた。しかしその3ヶ月後、朝鮮戦争が勃発し、それを機に日本の再軍備が進み始めた。また日米間での単独講和(および日米安全保障条約)を進めるのか、それともソ連なども含む全面講和を目指すのかをめぐって国論が分裂する。そして1951年9月、前者の道が確定した(条約が調印された)。そうした情勢をふまえて、江上不二夫ら5名の科学者が「講和条約調印に際しての声明」の決議を日本学術会議総会に提案したのであった。「従来の声明[戦争を目的とする科学の研究には今後絶対に従わないという、1950年4月の声明]を再び確認し、その声明の実現を保証している日本国憲法を守るという堅い決意を表明する」という趣旨の提案である。

この提案に対し三村は、戦争を防ぐためのもっと現実的な、力のある策を検討すべきだとの立場をとった。1950年4月当時の世の中は「夢に近かつた。いわば日本は再軍備をしなくてもよい、戦争は当分ない、こういう状態が日本にあった」。だから、戦争目的の科学研究に従わないというのは、夢でも何でもなく、現実に近かつた。ところが朝鮮戦争が起きて世の中が変わった。戦争が「日本にもヒタヒタと押しよせてきている、それを防ぐにはどうするか」を真剣に考えなければならない。戦争目的の科学研究に従事しないと「ただ夢を追うようなことでは、とてもとても平和なんて来はしない」というのである。

「アメリカにこのかたきを討ってやろう」と思った三村であるが、次第に考えが変わっていく。

ところが考えてみますと、前のドイツの例で見れば武力で侵したところでとても[アメリカに]勝てぬ。…それでは日本が今のような行き方で行ったら、とても勝てないということに私は気がつきまして、…武器でないもので現在の戦争という定義にない戦争をして[アメリカを]やっつける。〔拍手〕こういう方法しかないと考えたのであります(注10)。

そして三村は、芸術や文学、あるいは理論物理学で世界一になって、アメリカに勝とうと「みずからを慰め」た。しかし米ソの対立が厳しさを増すとともに、原爆が喫緊の問題になってくる。そこで「戦術」「考え方」を変えた。「原爆の惨害を世界中に拡げる。しかも誇張するのでなしに、実情そのままを伝える。これが日本の持つ有力な武器である」と考えるようになった。

そうして三村の行き着いたのが、1952年10月の学術会議総会で述べた考えであった。「この味[原爆のもたらす惨害]」を知らしめることで、アメリカにもソ連にも原爆を捨てさせる、それが実現するまで大規模な原子力研究、すなわち原爆開発につながるような研究に「絶対に日本人は手を触れてはいけない」という考えである。


注1) 三村剛昻の経歴や業績については、小長谷大介「広大理論研設置をめぐる三村剛昂とその周辺」『龍谷紀要』第35巻第1号、pp.37-45 が詳しい。なお名前を「剛昂」と表記する文献もあるが、三村本人が校正したと思われる文章で「剛昻」となっていることから、筆者は「剛昻」を採用する。
注2) 日本学術会議『日本学術会議25年史』日本学術会議、1974年、p.36.
注3) 占領が終わる1952年4月まで、原爆の被害に関する情報はGHQにより厳しく統制されていた。雑誌『アサヒグラフ』8月6日号がはじめて、原爆による惨状を写真で紹介した。
注4) 亀山直人ほか「原子力問題に関する討論―学術会議第13回総会における―」『自然』1953年1月号、pp.28-38.
注5) 朝日新聞朝刊、1952年10月23日。「日本国民への私の釈明」は、戦前にアインシュタインを日本に招いた出版社(改造社)が『アサヒグラフ』1952年8月6日号をアインシュタインに送ったところ、それを見た感想として彼が同社に送ってきたものである。
注6) 三村剛昻「原・水爆と原子炉」『学校教育』454号、1955年、pp.18-23. 引用はp.23から。ネロは、暴君として知られる帝政ローマ第5代皇帝である。三村は「米ソ両国の極く僅かの最高権力者」たちを「ネロ達」と呼んでいる(p.20)。
注7) 三村剛昻「通信」『広島医学』IX(7), pp.1-4.
注8) 亀山直人ほか「原子力問題に関する討論―学術会議第13回総会における―」『自然』1953年1月号、pp.28-38. 引用はp.33から。
注9) 「「講和条約調印に際しての声明」をめぐって」『中央公論』1951年12月号、pp.198-215. 引用はp.213より。
注10) 亀山直人ほか「原子力問題に関する討論―学術会議第13回総会における―」『自然』1953年1月号、pp.28-38. 引用はp.33から。