牧野佐二郎と顕微鏡

前回「小熊捍と顕微鏡」で述べたように、小熊捍は顕微鏡で精確な観察ができなくなったのを機に、研究の最前線から身を引いた。小熊の弟子、牧野佐二郎も同様だったようだ。

牧野は「なにかに打ち込んでいなければきがすまない」(注1)気性で、定年退職後も顕微鏡を覗いていたようだが、最晩年になると、「今は目が悪くなり顕微鏡はみられなくなったので家畜の染色体異常の文献の仕事を自宅で」することになる(注2)。

その牧野が、自身と顕微鏡との関わりについて興味深い事実を書き残している(注3)。

私は助手時代[1930~1935年]、ライツの中型顕微鏡をあてがわれていたが、仕事が進むにつれてそれではやって行けなくなり、先生に九拝して大型顕微鏡を買って貰えることになった。オリンパスの最新型といわれたOCE1台を求めたときの感激は生涯忘れられない。何しろ年間の講座研究費が1,800円の時代であったから、たしか250円であったと思うが、その買物は私にはぜいたくなものであった。

ここに出てくるOCE鏡基は、高千穂製作所(オリンパスの前身)が、ツァイスのECE鏡基をモデルに改造を加えたもので、1931年に、生物用大型顕微鏡の富士号として世に出した。同社はその後、アポクロマート対物鏡やコンペンザチオン接眼鏡などを開発して性能を向上させ、1934年に「外国品に遜色なきアポクロマート式対物鏡付高級顕微鏡の製作を完成せしめ」た(注4)。牧野が小熊に買ってもらった「大型顕微鏡」とは、これのことであろう。

高千穂製作所がOCE鏡基を開発するにあたり、社長の山下長は設計者に対し、こう言ったという(注5)。

設計は全然独創的なものを避くべし、また全然猿真似をも避くるべし、すなわち舶来高級顕微鏡のうち、日常使用する人々の意見を徴し…いずれの高級顕微鏡がわが社の製作見本として最も適合すべきかを決定し、それにある程度の改造をなすべきことを希望す

「日常使用する人々の意見を徴し」という山下社長の方針に、ユーザの一人である牧野も応えたようである。牧野は、「よく[高千穂製作所の]幡ヶ谷の工場に行っては技術部の人たちと会って、新製品をみせて貰ったり、使用者側の立場からの希望や経験からの意見をのべたりして過ごしたものであった」と、1935年ごろを回想して述べている(注6)。

工場の技術者たちとユーザである牧野との間を取り持ったのは、営業担当の秋山茂だった。

秋山さんはオリンパスの会社が出発した初期に、セールス面を引き受けて私共と直接の接触をもった人で、その昔工場で製作作業にもたずさわって技術面の経験もあり、単なる販売人としての立場を離れて、初期の顕微鏡の不備な点について使用側の注意をよくきいて相談にのり、それを技術的に直接製作者側に伝え、私共と一緒になって顕微鏡の発達につとめた(注7)。

牧野は、250円という高額のOCE顕微鏡を購入するにあたり、その「秋山さんとわざわざ幡ヶ谷の工場まででかけて、10数台の中から1台厳選」したという(注8)。「顕微鏡はその精密性の故に、ながく一品主義的な、いわば名人芸によって製作され」ていた(注9)。それだけに製品のバラツキが大きかったのであろう。

牧野による戦前から戦後まもない頃にかけての染色体研究は、この時に買い求めた顕微鏡で行なわれた。それだけに牧野にとっては、「長い間研究の苦楽を共にした」「体の一部分のような」顕微鏡である。だから、定年退職にあたり製作した肖像画には、この顕微鏡を描き込んでもらったという(注10)。


注1: 著者不明「編集後記」牧野佐二郎『この旅に…―外国旅行の記録―』セントロソーム、1983年所収。
注2: 牧野佐二郎『我が道をかえりみて』私家版、1985年、p.50.
注3: 牧野佐二郎、前掲書、p.53.
注4: オリンパス光学工業株式会社『50年の歩み』オリンパス光学工業株式会社、1969年、pp.53-56.
注5: オリンパス光学工業株式会社、前掲書、p.53.
注6: 牧野佐二郎「日本の顕微鏡発達の一断面」『化学の領域』24(10)、1970年、p.53.
注7: 牧野佐二郎、前掲論文、p.52.
注8: 牧野佐二郎、前掲論文、p.53.
注9: オリンパス光学工業株式会社、前掲書、p.201.
注10:牧野佐二郎、前掲論文、p.53. この肖像画も白黒写真で掲載されている。