小熊捍と顕微鏡

敗戦から1週間ほど後の1945年8月25日、小熊は日本遺伝学会札幌談話会の第82回例会で、「六十年の回顧」と題して1時間あまりにわたって講演した。「小熊先生還暦祝賀談話会」を兼ねた例会だったからだ。

そのときの小熊の講演を、助教授だった牧野佐二郎がノートに書きとめている。そのなかに、こんな記述がある(注1)。

理学部長、6ヶ年。低[温]研、触媒研ヲ作ル。再ビ研究室ニ帰ルベキカヲ[考エタ]。顕微鏡ノ仕事ニ正確ニ見ラレナクナツタノデ若イモノニ任スベキダト決心スル。

小熊は、1937年から43年まで、2期6年間にわたり北海道帝国大学の理学部長を務めた。その任期を終えたとき、再び研究生活に重心を移そうと思ったけれど、顕微鏡での観察が思うようにできなくなっていたので、研究は若い者(牧野佐二郎)に任せ、自分は研究体制の整備に力を注ぐことにしたというのである。実際、小熊は定年で退官する1948年春まで、低温科学研究所と触媒研究所の所長を務め(それぞれ1941年、43年から)、その後は国立遺伝学研究所の設立に奔走し、初代所長に就いた。顕微鏡で思うように観察できるかどうか。それは生物学者小熊捍にとって、研究者としての死命をも制するほどに重要なことだったのである。

小熊捍と顕微鏡との関わりについて、牧野はこんなエピソードも書き残している(注2)。

先生は遊学時代にフランスやベルギーの顕微鏡の性能について認識を深められたようで、顕微鏡の工場でその作業まで見学された。「日本人は指先が機用[ママ]である。それを使えば顕微鏡のレンズを磨けないことはない」と語られた。外国からお帰りになった大正末期から昭和の初期の頃に、現在のオリンパスの前身である高千穂顕微鏡会社があって、その所長の山下長[やました たけし]さんというお方が良心的に採算を度外視して顕微鏡の製作に取り組んでいた。理学部に移られる前からそれに注目された先生は山下さんの工場に私を連れて行き、御自分で幡ヶ谷の工場の本社まで出掛けられレンズ磨きの実際を視察し、山下さんに外国での見学の模様を話された。

この文章にある「高千穂顕微鏡会社」は、正確には「高千穂製作所」であろう。1919年10月に、主に顕微鏡と体温計を製造する会社として、山下長を専務取締役として設立された。本社事務所と工場が東京府豊玉郡代々幡町大字幡ヶ谷にあった(注3)。

農学部にいた小熊捍が、在外研究員として出張していたヨーロッパから帰ったのは、1925(大正14)年6月である。その後1929年に農学部応用動物学講座の教授に昇進するが、1930年に理学部が新設されると理学部に異動し、理学部で動物学教室の創設に力を注いだ。一方の牧野佐二郎は、1927年に予科から本科(農学部)に進学し、小熊捍の指導を受けるようになる。そして1930年に卒業して、理学部に移った小熊捍の助手となる。したがって、小熊捍が高千穂製作所(の山下長)にアドバイスを与えたというのは、1925~1930年のことであろう。

高千穂製作所は1920年に、旭号と名づけた顕微鏡(ライツ四番型を原型とする600倍乾燥系顕微鏡)を世に送り出した。レンズの研磨は、ドイツ製顕微鏡レンズを見本に、眼鏡の玉みがき職人などが「一子相伝風の秘術に近い」やり方で行なったという(注4)。

しかし、職人的な技芸だけで優秀な外国製顕微鏡に太刀打ちするのは、なかなか困難だった。山下長にしても、東京帝国大学の法学部出身であり、顕微鏡について理論的に理解しているわけではなかった。

「つくる方は顕微鏡の素人であり、使う方は外国製品を基準にして、すこしの不具合があっても、すぐ返品してくる。しかも、相手のいうことが容易に理解できない。たとえば、納入した顕微鏡が視野動揺ということで返品されても、その視野動揺ということがわからない有り様だった」(注5)。創業まもない頃の、技術者の回想である。

そこで同社は1926年2月、東京帝国大学工学部の教授、竹村勘忢(たけむら かんご)を技術顧問に迎えた。また新潟医科大学教授の川村麟也(かわむら りんや)が1922年に「渡欧するにあたって、とくに依頼してドイツのツァイス、ライツにおける顕微鏡の製作状況についての調査を求め、その報告をもとに、工場設備、工程上の改善に着手」した(注6)。

川村による「報告」が、1926年に帰国してからなされたのか、それともヨーロッパ滞在中になされたのかは不明である。しかし高千穂製作所が1920年代半ばには、「専門家からのアドバイス」を強く求めていたことは間違いない。小熊捍による「外国での見学の模様」は、大いに歓迎されたことであろう。

高千穂製作所は1927年に、「昭和号」と名づけた新しい鏡基を完成させる。これは「当時における国産顕微鏡の最高峰を示すもの」であり、「その後改良に改良を重ね、戦前、戦後を通じて最も多く製作され、一時はわが社のドル箱といわれ」るようになる鏡基であった。この昭和号を完成させた頃、同社は「オリンパス顕微鏡に対する学会の批判を求めた」という(注7)。ユーザの声を尊重したのである。

同社の社史『50年の歩み』には、前記の竹村勘忢と、常岡良三(京都府立医科大学 微生物学教室 教授)による評価が紹介されているだけであるが、小熊捍も率直なコメントを寄せたのではなかろうか。


注1: 牧野佐二郎『文献覚書VI(1940-45X)』北海道大学総合博物館所蔵。この資料(B5版のノート)の閲覧にあたっては、山下俊介氏(同博物館資料部)のご配慮を頂いた。
注2: 牧野佐二郎『我が道をかえりみて』私家版、1985年、pp.62-63. この引用文中の「フランスやベルギーの顕微鏡の性能について認識を深められた」という記述には、いささか疑問がある。小熊は1922年から25年まで、在外研究員としてヨーロッパに滞在し、主としてウィニワルター(H. de Winiwarter)の研究室(ベルギーのリエージュ大学)でヒトの染色体を研究した。そのころヨーロッパでは、ツァイス(Zeiss)やライツ(Leitz)といったドイツ・メーカーの顕微鏡が席巻していたから、小熊が視察したのは、ドイツの顕微鏡工場だったと思われる。もっとも牧野の文意は「フランスやベルギーで使用されていた顕微鏡」なのかもしれないが…。
注3: オリンパス光学工業株式会社『50年の歩み』オリンパス光学工業株式会社、1969年。取締役社長は川上謙三郎だったが、名目的な社長だったと思われる。なお体温計などを製造する「計器部」は、1923年に赤線検温器(株)会社に譲渡され、高千穂製作所から切り離された。
注4: オリンパス光学工業株式会社、前掲書、pp.12-18. 商標は「トキワ」であった。しかし「あらゆる分野にわたって舶来品流行の時代」であったことから、1921年より「オリンパス」に改められた。
注5: オリンパス光学工業株式会社、前掲書、pp.29-30.
注6: オリンパス光学工業株式会社、前掲書、p.36. 竹村勘忢(1882 – 1955)は、東京帝国大学工科大学機械工学科を1905年に卒業し、同大学助教授、欧米留学を経て、1920年に同大学教授となる。1930年には日本機械学会会長に就く。竹村は光弾性材料試験器を発明し、その製作を島津製作所に委ねていたのだが、実際の製作は高千穂製作所が行なっていた。山下はそうした縁で、竹村を高千穂製作所に顧問として招いたのだという。川村麟也(1879 – 1948)は、東京帝国大学医学部を卒業後、同大学医学部、欧州留学を経て、1911年に新潟医学専門学校(のち新潟医科大学)教授となる。地方病とくにツツガムシ(恙虫)病の病原体を探索し、それがリケッチアであることを明らかにした。
注7: オリンパス光学工業株式会社、前掲書、pp.41-42.