染色体の研究と映画への関心 ― 牧野佐二郎と映画(4)

牧野佐二郎(1906-1989)は、自伝で回想しているように、北海道帝国大学の予科に入学するとまもなく活動写真(映画)にのめり込んだ。映画とのそうした鮮烈な出会いが、のちの彼の研究スタイル、すなわち自らの研究活動に16ミリ映画を活用するという流儀に、どう影響したのだろうか。

1967年の暮、牧野佐二郎は千葉医学会の例会で「人類染色体の最近の問題」と題して講演した。それを聴いた研究者の一人が感想を書きとめた一文で、「スライドや映画で非常に明解に講演された牧野氏」と表現している(注1)。牧野は講演や学会発表などで、映画を効果的に使ったのである。

牧野は敗戦後まもない頃(1952年4月から1953年5月まで)、文部省派遣研究員として1年ほどアメリカに出かけ、各地の大学や研究所で研究者たちと交流した。その旅も終わろうとする頃(1953年3月末か4月はじめ)、牧野はカリフォルニア大学で「細胞分裂の生態観察に関する16ミリ映画をみせてセミナーをや」った(注2)。

それに先立つ1952年10月には、東北大学で開催された日本動物学会第23回全国大会で「細胞分裂の生態観察」と題した報告が、形態・細胞・遺伝の分科会で、16ミリ映画を見せながら行なわれてもいる。牧野は渡米中であったが、牧野佐二郎・中原晧・川村健彌・佐々木宏の連名で発表されている(注3)。

これらのことから、牧野は遅くとも1952年ころには、細胞分裂の様子を記録するために16ミリ映画を活用し始めたことがわかる。牧野自身も、次のように述べている。

…戦後は発達した位相差顕微鏡の技術をとり入れて、生きた細胞の分裂のしくみや薬品処理に対する細胞と染色体に対する反応などを追求したり、ガン細胞の分裂や薬品処理による細胞の崩壊の様相を生きたままの状態で16ミリ映画に記録研究する仕事に手を伸ばした。…(注4)

逆にいうと、戦前や戦時中には、研究に映画を活用することがなかったということだろう。実際、牧野は戦後の1947年まで、小熊捍のもとで助手や助教授を務めており、自分の研究スタイルを打ち出すことは難しかっただろうし、その小熊に、映画を科学研究に利用するという発想があったとは思えない。小熊自身、農学部動物学科の助手になってまもなく、主任教授の八田三郎に呼びつけられて、こう諭されていたからである。

とかく若い者は新しいことに手を出すが、それもいつまで続くかわかるものではない。この頃活動写真というものがはやり出したがそれもいつまで続くかわかったものではない。一時の興味に捕われて新しいことに手を出しては駄目だ、若いうちはじっくりと学問をやらなければいけない(注5)。

牧野は戦後まもないころから、研究活動に16ミリ映画を活用するようになるのだが、ではこの点において日本の研究者のなかで先陣を切っていたのだろうか。

先に、1952年の日本動物学会で牧野たちが16ミリ映画を活用して学会報告を行なっていると述べた。しかし牧野たちのほかにも16ミリ映画を活用している研究者グループがいた。同学会の2日目に午後4時から「映写会」が開催され、牧野たちの映画のほかに、「東大木下治雄のメダカの黒色色素細胞における膜電位」という16ミリ映画も上映されたのである(注6)。

この種の「上映会」のために特別の時間枠が設けられ、しかも「来観者約300名」という盛況ぶりからすると、1952年の時点で16ミリ映画を利用すること(もしかしたらスライドの利用さえも)は、先駆的なことだったのだろう。とはいえ、牧野たちが日本の科学界で先陣を切っていたかどうかについては、他分野にも視野を広げて、さらに検討する必要があるだろう。(おわり)


注1) 加濃正明「牧野佐二郎氏講演会印象記」『千葉医会誌』第43巻、1968年、p.900.
注2) 牧野佐二郎『我が道をかえりみて』私家版、1985年、p.57.
注3) 動物学会で上映した映画が渡米中の牧野に郵送され、それを牧野がカリフォルニア大学で上映したのか、あるいは牧野が渡米する時点ですでに映画ができていて、牧野がそれを持参していたのかなど、詳細は不明である。もし後者であれば、牧野はアメリカの他の研究所などでも上映したと思われるが、そうした様子はない。
注4) 牧野佐二郎、前掲書、p.38.
注5) 牧野佐二郎、前掲書、p.60.
注6) 「日本動物学会第23回大会記事」『動物学雑誌』第62巻第3・4号、1953年、pp.71-72. このほかに、幻灯(スライド)で「北大朝比奈英三のウニの卵の凍結、京大中村健兒のイナゴの精母細胞の成熟分裂」も上映された。