映画「牧場の春」とは ― 牧野佐二郎と映画(3)

牧野佐二郎が、映画への病が高じ製作仲間にも加わったという映画「牧場の春」とは、どんな映画だったのだろうか。また牧野は、どんな役割を果たしたのだろうか。

『北海道映画史』をまとめた更科源蔵は同書で次のように書いている。

この年[1924年]だったかその翌年だったか、記録にも当時の人にもはっきりしていないが説明者協会の人々によって『牧場の春』という映画がとられた。脚本、主役松浦翠波、女優さんに水島キミ、子役野沢勝子、それに熊谷曉風、水島翠狂、大東好美、花房小太郎等が石切山や中島公園などでロケをした活劇を取入れたもので、中央館では中々の大入りをとった(注1)。

「記録にも…はっきりしていない」とあるが、近年、三浦泰之氏が貴重な「記録」を発掘してくれた(注2)。小樽新聞に掲載された記事である。

1925年5月22日の「キネマ」欄にこんな記事が出ている(注3)。

……▲数ヶ月間の苦心になる札幌映画協会の第一回作品映画劇「牧場の春」□巻は愈二十日完成した。原作は遊楽館の松浦翠波君、撮影及監督は堀内商会の堀内喜一、宮崎潔両君で、筋は大向受の極く甘いものである▲札幌郊外の圓山、藻岩、石山、其他市内中島公園、一条橋等を背景として、説明者諸君全部が出演してゐる▲熊谷、松浦、水島、玉の、竹山、花房の諸君はいづれも大成功で監督の苦心がしのばれ、この映画は今二十二日から遊楽、中央、美満壽三館で同時に封切されると▲専門□社の映画と遜色のない、これ丈のものが札幌に於て製作される事は本道斯界の為に大に喜ぶべきことである。

また7月14日には、映画のあらすじを紹介した記事も掲載されている(注4)。

小樽新聞 1925年7月14日発行

「牧場の春」(札幌説明者協会作品)原作松浦、監督堀内、俳優は札幌の弁士連中、夕陽美しき藻岩に北村といふ牧場があつた、或年動物の病が流行して牧場主仙造は金策に奔走したがまとまらず失望して帰る途中、はからずも三百円入の黒鞄を拾つた、それがため仙造は殺人の罪名で引かれたが、そんな出来事を知らない倅の忠一は久方振で内地から帰ると、老僕の佐平と妹のお光と弟の白痴の太吉とが淋しく彼の帰りを待つてゐた、悲劇は父の事のみに止まらず、妻のお絹は彼女の兄兼吉の為めに連れ去られて、残された乳呑兒の新太郎は日夜母の乳房を求めて泣いてゐた、かくして悲惨な生活を続けてゐた北村一家も□雄と云へる青年の為に□けられて、幸福の恵み深き生涯に入る事が出来たといふ平凡な筋、勿論出演者の演技も素人のことなれば問題にならないが、只札幌で作つた映画といふことが興味をそゝる点であらう(十四日より三日間富士館上映)

「説明者」とは活動写真の弁士であるから、「札幌説明者協会」とは札幌で活躍した弁士たちの団体であろう。少なくとも5月と7月に、いくつかの映画館で上映されたことが判る。

その映画への評価は、「平凡な筋」「演技も素人」と内容面ではあまり芳しくないが、札幌でこれだけのものが製作されたという点は高く評価されている。「大部分失敗と見て良い」が「異国的な北海道の風物」を活かしたという点では巧みだと評する者もあった(注5)。

これらの記録から「牧場の春」の概要はわかった。しかし肝心の牧野佐二郎がこの映画製作にどう関わったのかは、残念ながら不明のままである。少なくとも製作者や主要登場人物の中には名前が見あたらない。製作の「裏方」でしかなかったのだろうか、それとも「通行人」などとして出演したのだろうか。(つづく)


注1) 更科源蔵『北海道映画史』株式会社クシマ、1970年、p.68.
注2) 三浦泰之「戦前・戦後の北海道を生きた撮影技師・栃木栄吉の生涯―北海道記録映画史序説―」『北海道開拓記念館研究紀要』第42号、2014年、pp.243-202.
注3) 小樽新聞、1925年5月22日。□は判読できない文字。
注4) 小樽新聞、1925年7月14日。□は判読できない文字。読点を補った箇所がある。
注5) 村上克己「だいご」『映画』第1巻第1号、1926年、pp.35-37.