牧野佐二郎と映画(1)

染色体の研究で知られる生物学者の牧野佐二郎は、自らの研究を動画(16ミリフィルムの映像)に撮りためていたし、学会発表などでも動画を活用した。また東京シネマ製作が、映画「ヒトの染色体―生命の秘密を探る―」(文部省学術映画シリーズ18、1966年)を製作するにあたっては、自ら監修するなど研究室をあげて協力した。この映画は、科学技術映画祭優秀作品賞など、いくつかの賞を受賞する。牧野佐二郎と映画(科学映画)の間には、なにやら深い関係がありそうだ。

そう思って調べてみると、牧野本人が晩年に、映画と出会った若いころのことを書き記しているではないか。北海道帝国大学の予科に入学し、千葉県の成田から札幌に出て来た、1924年(大正13年)頃の思い出である。少し長いが、以下に引用しよう。

私は田舎の中学校から来たので、教養と情操の面で一段欠けていて、小説を読んだことも少なかったので予科の3年間はいろいろな小説を読みふけりました。その当時芥川龍之介の自殺などもあって、刺激を受けたことを想い出します。また音楽部に入部して、クラリネットを練習したこともあり、その当時は耳も達者でした。もう一つ予科時代で想い出すのは「活動写真」今でいう映画で、それに夢中になった時代は第一次世界戦争の終った直後で、ドイツやフランスから素晴らしい映画が輸入され、ドイツからは「カリガリ博士」、フランスから「鉄路の白バラ」「キーン」「想い出」「嘆きのピエロ」といったような非常に情緒豊かな活動写真を澤山みることができた。私はその頃「サトポロ」という映画の雑誌を出す仲間に加わっていて、「サトポロ」は1年位続き、確かどこかの本屋さんの店頭に出したかと思います。それからもう一つ病が高じて、今度は映画を作ろうという仲間に加わったこともありました。「牧場の春」という4巻くらいの映画であったと思います。その頃札幌に澤山の映画館があり、ミマス館、松竹座、三友館、今春館などがあって、そこの弁士達が主になって、「牧場の春」が作られたのです。また毎月出る「キネマ旬報」や「映画往来」などの雑誌が待たれたものでした(注1)。

はて、牧野が仲間に加わって出した「「サトポロ」という映画の雑誌」とは、どんなものだったのだろうか。また、映画「牧場の春」の製作に牧野はどのように関わったのだろうか。(つづく)


注1) 牧野佐二郎『我が道をかえりみて』私家版、1985年、pp.18-19.