1941年11月に発足した低温科学研究所は、中谷宇吉郎を中心に構想された当初の案(1939年)では、物理/気象/海洋/化学/医学及生理学 という5つの研究部から構成されるものであり、「生物」は含まれていなかった。しかし1941年11月に正式に発足した低温科学研究所では、純正物理学/気象学/生物学/医学 の4部門から構成され、「生物学」が含まれている(注1)。この間に、何があったのだろうか。
牧野佐二郎が、次のような出来事を書き残している(注2)。
1934年ごろのこと、牧野は小熊捍から、ショウジョウバエを使って遺伝学の研究をするよう勧められた。そこで牧野はさっそくショウジョウバエを飼育箱で飼い始めた。とはいえ、ショウジョウバエは10日ほどで世代交代するので、そのたびに飼料を新しくした瓶に移し替えなければならない。牧野はまだ助手であったから、小熊研究室の「雑用を一手に引き受け、その上自分の研究もやらなければならず、仕事は相当多忙」であった。そこで、何年か経った冬の2月頃、「忙しさのあまり、ズルイことを考えた」。飼育瓶を廊下など外に出しておけば低温のため幼虫の発育が遅れ、1世代の日数も伸びるだろう、だから瓶を替える間隔も延ばせる、と。
ところが、こうして低温下においたショウジョウバエで体細胞の染色体を調べたところ、染色体が12個見えるはずなのに6個しかない。形をよく見ると、対合した二価染色体ではないか。染色体の対合は生殖細胞でしか起きないはずなのに、体細胞でも起きたのである。
牧野はさっそく、ショウジョウバエを冷蔵庫(温度は摂氏5度ほど)内に2日または、3日、5日置くなど実験条件を変えてこの現象を詳しく調べた。そして、減数分裂の前期に低温下に置くことで相同染色体の間に対合の機会を与えることができるという仮説を論文にまとめ、国際細胞学雑誌『Cytologia』の第12巻(1942年)に発表した(注3)。
この研究は当時、大いに関心を惹いた。「実験的に体細胞に染色体対合も誘発した仕事であるということで、キトロギアの藤井健二郎先生(故人)からおほめにあづかり、キトロギア論文賞(?)とも申すべき賞金を頂いた」のである(注4)。当然のことながら牧野の上司である小熊捍も、この研究成果に大いに注目したことであろう。
牧野によるこの論文の受理日は、1942年1月22日である。そして「あれやこれや先人の文献を引用して推論を加え、1年あまりを費して」論文にまとめたというから、実際に実験をしたのは1940年から41年にかけての頃と思われる。この時期はちょうど、低温科学研究所の設置が実現に向け動き始めた時期である。だとすれば、牧野の研究を見ていた小熊捍が彼の研究にヒントを得て、「低温」が生物学研究に大きな意味をもつことに着目した、そして低温科学研究所の中に生物学部門を設けようと考えた、ということが十分にありそうに思われる。
低温科学研究所の生物学部門には、理学部植物学教室の芳賀忞が助教授として就任する。そして芳賀は、低温処理による染色体の「退色反応」も利用して、エンレイソウ属の植物などについて細胞遺伝学の研究を進めた(注5)。
低温科学研究所の歴史的意義を考えるにあたっては、中谷宇吉郎に代表される物理学的研究の側面だけでなく、こうした生物学的研究の側面についても十分に考慮すべきであろう。
注1) 杉山滋郎『中谷宇吉郎』ミネルヴァ書房、2015年、pp.69-72.
注2) 牧野佐二郎「研究中の“不意の出来事”」『蟻塔』16(10)、1970年、pp.1-3.
注3) Sajiro Makino, “Artificial Induction of Meitic Chromosome Pairing in the Somatic Cell of Drosophila virilis”, Cytologia, 12(1942), pp.179-186.
注4) 牧野佐二郎、前掲記事。
注5) 杉山滋郎『北の科学者群像―[理学モノグラフ]1947-1950』北海道大学出版会、2005年、pp.113-118. なお、植物学教室(松浦一教授)のもとにいた倉林正尚も「低温処理による染色体特殊部分の研究」など低温を利用した研究を行なっている。